20201129日 ルカによる福音書171119節 「なぜ教会に行くのか」

 今朝は、コロナウィルスの感染者急増に冷や汗している今のこの私たちへの、主イエス・キリストからの、とてもストレートな御言葉が届けられています。

 今朝の御言葉には、10人の重い皮膚病を患っている人々が登場します。彼らの病は、伝染すると考えられていましたので、旧約聖書にもその決まりが明文化されているのですが、この病にかかってしまったら、人との間に距離を取らなければならなりませんでした。彼らは汚れた者たちと呼ばれ、汚れが移ってしまうので、彼の座った椅子には、他の健常な人は座ってはいけないとさえ、されていました。ですから彼らは、主イエスが彼らのいた村を通られた時、遠くに立ったままで、そこから声を張り上げて、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言ったのです。

 まるで今の私たちです。ウイルスに汚されないように、どこかの建物に入るたびに、家に帰宅するたびに手を消毒し、ソーシャルディスタンスを維持する。教会に来るということもままならず、今朝も恐る恐る集っています。

 そして、14節にありますように、17:14 イエスは重い皮膚病を患っている人たちを見て、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われた。彼らは、そこへ行く途中で清くされた。」

重い皮膚病の人々に、あなたたちは治ったと、隔離の解除を認めることができるのは祭司でした。ですから主イエスは、祭司たちのところに行って、体を見せなさいと言われた。そして、彼らはそこへ行く途中に、清くされた。しかし、清くされた10人のうち、主イエスのもとに戻って行ったのは、たった一人だけでした。

 

この主イエスのもとに戻って行かない9人に、自分自身の姿を見る思いがします。これだけコロナウィルスが蔓延している中で、またどうやっても、どこに逃げてももはや絶対安全な場所などないという今の状況の中で、今日私たちが感染を免れているのは、何故か?ウィルスの拡大について、欧米やその他の国々よりも格段に緩い政治的対応のみしかせずに、しかもGo Toと言って、観光や人々の往来を積極的に促しておきながら、欧米よりも少ない現在の程度の国内感染状況に抑えることができていることは、たまたまなのでしょうか?

主イエスに感謝を伝えることなく、あっ、治った、ラッキーと言って、そのまま家路について、主イエスの導きによって清くされた恵みを忘れて生きる9人の明らかな無礼と無感覚。主イエスは、そして神様はとてもお優しい方なので、その9人を追いかけて行ってとっ捕まえるようなことはされないのですが、しかし主イエスは、17節で、その9人のことを明らかに気にかけておられて、その者たちの顔が見えないことを嘆いておられます。17節から18節にはこうあります。17:17 そこで、イエスは言われた。「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。17:18 この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」」

 主イエスは、御自身の下に戻ってきた一人の人について、あなたの信仰があなたを救った、と言われて、そこに信仰があることを認めてくださいました。しかし、戻ってこなかった9人については、信仰という言葉は語られませんでした。信仰とは、信頼という意味をも持っている言葉です。

 よって9人には、主イエスに対する信頼がなかったのだと言うことができます。主イエスが、その重い皮膚病の汚れを取り除いてくださったのに、主イエスがいやしてくださったのだという信頼は、9人にはなく、おそらく彼らは、10人みんなが治るぐらいなのだから、これは、何らかの原因で、皮膚病そのものが終息したのではないかと、主イエスが特別に癒してくださったというよりも、ちょうど私たちが主イエスに助けを求めたタイミングが、病が治るタイミングだったのだろうと、不治の病であるにもかかわらず、彼らはきっとそんな風に、神様抜きでの収束を考えていたのではないかと思います。

 私たちもそうです。一旦ウィルスが収束して、感染者数が6月には神戸市内で0にまで下がった時もありましたし、コロナウィルス禍のこの一年の中で、私たちそれぞれも咳が出たり、熱を出したりすることもあったが、不思議とウィルスから守られた。さらに今この時、私たちは自分たちが今なお守られている。私たちはこれらのことの感謝を、主イエスへの真心からの信仰と信頼へと、繋げられていただろうか?

運よく、たまたまこの私たちが守られているということではないのだと思いますし、少なくとも私たちは、今朝もこの御言葉を与えられましたので、やはり、神様抜きで、たまたまにと、そういう風には考えない。神様が、私たちを、たまたまではなく、しっかりと、気にかけて、ウィルスから守ってくださいという私たちの祈りを聞き上げて、本当に守ってくださっている。そして私たちが、この一週間もどうだったのかな?大丈夫だったかな?元気な一週間を過ごせたのかな?と、10人どころではない、この私たちと、私たちそれぞれの家族と、またこの町と、この地域を、この国を、神様は心にかけてくださっている、考えてくださっている。そして、元気な体で会えるなら嬉しいし、そうでなくても、その時はさらにしっかりと癒してあげるからと、私たちそれぞれがご自身の元に戻って来るのを待ってくださっている。

 もう私たちは、ルカによる福音書を毎週読んできていますので、もう大分、ここに書かれていることを読み取ることができるようになっていると思います。放蕩息子の父親のように、神様は愛に深い方ですから、決して強制したり、無理やり無理強いはなさりません。無理強いしないということは、愛が浅いとか関心が薄いということでは決してなく、逆にそれは神様の愛の底抜けの深さの現われです。深い愛ゆえに、神様は無理やり私たちの首をご自身に向けさせるような、ないかなる強制をもしたいとは思われないし、それだけ私たちの自主性と自由を本当に大切に尊重してくださいます。そして神様はただ、助けるだけ助けて、愛を注ぐだけ注ぎ続けてくださりながら、あの父親のように、待っておられる。私たちがその愛に気づいて戻ってくるのを心待ちにしてくださっているのです。

 そう考えるならば、このコロナウィルス禍は、神様の守りと愛を改めて私たちが知って、かえって今まで以上の、神様への感謝と礼拝へと導かれるべき時なのかもしれません。

 

 この神の愛を知った、10人の中の一人が戻ってきました。1516節。17:15 その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。17:16 そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。」

 その一人は、サマリア人でした。これまでも、良きサマリア人のたとえが10章で語られましたが、サマリア人もともとユダヤ人と同じ人種だったのですが、他国人との交流で混血人種となり、宗教的にもゲリジム山というエルサレムの北にある山の上に、エルサレムとは別の聖地を作って、別のサマリア人たちオリジナルの宗教を奉じていた人々でしたので、彼らはユダヤ人は主イエスの時代の前に戦火を交えたこともありますし、ユダヤ人たちと彼らとは、彼らと話すことさえせず、お互いを軽蔑し合っていました。

しかしほかのユダヤ人たちが戻ってこない中で、そのサマリア人だけが、大声でユダヤ人の神を賛美しながら戻って来た。そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝しました。民族、宗教の壁を越えて、この主イエス・キリストこそが、真の神だとこの人は認識し、自分を癒してくれて、清めてくださった主イエスのところにこの人は来て、その足元にひれ伏して、感謝した。これは、今神様に礼拝をささげている私たちがしていることです。このサマリア人は、今の私たちと同じことをしています。そしてこの私たちも今、このサマリア人と、同じところにいるわけです。

なぜ彼は、彼だけが戻って来たのか?思えば、この私たちも、ユダヤ人と混血というどころではない、サマリア人以上に甚だしい異邦人ですし、主イエスのこの神を賛美するどころか、全く異質の神を祭って、拝んできた者たちです。でももう私たちは、キリスト教は外国の宗教だからとか、教会は日本人には合わないなどとは言っておられません。彼が戻って来たのは、彼が、決定的に、人生が変わるような仕方で、主イエス・キリストに出会ったからです。私たちもそうです。私たちも、このサマリア人のように、主イエス・キリストに触れていただき、この方の言葉によって清められ、癒され、歩む方向を示していただきました。今の私たちがあるのは、たまたまではありません。それは具体的に、主イエスに愛され守られている故です。

 

 主イエスは最後に、サマリア人のその人に言われました。19節です。17:19 それから、イエスはその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」」

 19節の最期のあなたを救った、と訳されている言葉は、具体的には、救うという言葉ではなく、あなたを生かし続ける、という言葉です。それは、「焚火の火を絶やさない」という意味の言葉ですので、ここでのもっとふさわしい翻訳は、あなたの信仰が、あなたを生き永らえさせる、という言葉になります。

その前の、立ち上がって、行きなさい、という言葉も、ただ、立ち上がってどこか分からないところへ行ってしまえ、という言葉ではありません。立ち上がって、と訳されている言葉は、主イエス・キリストが十字架に架かった後に死から蘇られた時の、あの復活するという言葉であり、行きなさいという言葉も、Go your way、あなたの道を行きなさい。道とは人生のことですから、つまり、あなたは死から蘇って、あなたの人生を生きていきなさい。信仰が、あなたを生き永らえさせるのだと、主イエスは言われました。これは、逆に言えば、主イエスからこの声掛けを受ける前のこのサマリア人には、この異邦人には、他の神を礼拝していた、重い皮膚病という病に侵されていた、死んだ状態の、自分の人生に踏み出していくことさえできない、神からも人からも、自分自身の人生からも遠く隔たったところで、孤独に隔離されていた、癒しを必要としていた、賛美を知らない人だった、という事実があり、過去があった。でもそこから、主イエス・キリストとの出会いで、すべてが180度変わったのです。

 

 なぜ教会に行くのか?生き永らえるためです。命の源に結びついて、ここでへたり込んだ状態から立ち上がって、ここで死から蘇って、ここで、重い病に苦しみ続けるところから、改めて神様が命じて、招いてくださっている自分の生きる道を見出して、ただ癒されたということに留まらないで、神に癒された者として、主イエスと共に、生涯を生きていくためです。ただ恵まれた、神様に恵みをいただいたというだけでは終わらずに、主イエス・キリストのところにちゃんと戻ってきて、この主イエス・キリストと共に人生を生きるようになる。そこまで行って初めて、その人は救われた。その人は信仰によって救いの道を歩むということになるのです。

 

救われた者として、神と共に生きていく。先程の、生き永らえるという言葉は、英語ではKeep aliveという言葉になりますが、このkeep aliveという言葉は、今、コンピューターネットワークの中で使われている言葉でもあります。keep alive機能によって、パソコンは、ネットワークでつながれているほかのパソコンと定期的に相互通信のやりとりをします。それは、パソコンがネットワークから切断されてしまって、他のパソコンと通信できない孤立状態になることを防ぐためなのですけれども、その点、信仰も同じです。信仰が、あなたをkeep aliveさせる。生き永らえさせると御言葉が語る時、信仰が孤立状態に陥らずに、定期的、持続的に確認、成立させられていないといけない。神様から離れて、信仰が機能不全に陥ったら、死んでしまう。

 ですから、なぜ教会に行くのか?つながるためです。信仰をキープするための他の戻るべき場所はありません。主イエスの足元にひれ伏して、感謝する。主イエスに信頼して、主イエスに立ち上がりなさいと、言っていただいて、安心して行きなさいと、送り出してもらう。それはこの教会でやることです。

からし種一粒の信仰という言葉もありましたけれども、私たちの信仰は、とても弱く小さく、からし種のようにすぐにどこかに隠れて見えなくなってしまう場合があります。ですから、教会とつながらず、孤立状態で、信仰の焚火の火を絶やさないでいることは難しいことですし、それではつらいことです。やっぱり、インターネットでも全くかまいません。一週間に一回はこの教会につながって、このキリストの教会につながって、みんなで薪をくべる。一人の祈り、一人の賛美じゃ心もとなく、一人でやっていけるほど私たちは強くないですし、また、一回の充電だけで、何週間も何カ月もずっと進み続けられるほど、私たちの信仰は長続きしませんので、週に一度はここに戻ってきて、みんなと、神様とつながって、keep aliveする必要があります。

 

 こんなコロナウィルスが流行っている危険な状況の中で、なぜ私たちは教会に行き、神様を礼拝するのか、ウィルスへの恐れの中で、なぜ神様に祈るのか、それは、今朝の御言葉で10人が求めたのと同じように、私たちが祈る「イエス様、先生、どうか私たち憐れんでください。」という声に、主イエスが本当に答えて、この状況を具体的に癒してくださることを知っているからです。自分たちの力ではいかんともし難いこのコロナウィルスの災い、私たちの力を越えた、本当に神のみが知る、私たちの未来ですので、医学や科学ももちろん大切ですけれども、今私たちは、神様にこそ癒しを願う。私たちクリスチャンが今この願いと訴えを祈り捧げないなら、他に誰がやるというのでしょうか。

 このコロナウィルス禍の今年にも、しかしアドベントは来ました。クリスマスは2000年前の主イエスの降誕を記念する時であるとともに、世界を完成させるために来てくださる、将来の主イエスの再臨を、その意味では二度目の降誕を未来に臨み見る時でもあります。聖書には、「あなた方から離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなた方見たのと同じあり様で、またおいでになる」と、約束されています。この世界は主イエスに捨てられていませんし、今も現に守られていますし、再び来るキリストの再臨の時に、私たちとこの世界は、完全な癒しを受け取ります。教会にはアドベントの飾り付けがなされ、クリスマスの準備がなされました。これは、私たちが過去を懐かしむための飾り付けではありません。未来で主イエスと会うための、今年もクリスマスの主イエスと新しく出会うための、備えの飾り付けです。今は目に見えませんが、しかし必ず私たちの近くに来て、この私たちの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる、その主イエス・キリストに、今朝、私たちも、この重い皮膚病の10人と一緒に、声を張り上げたいと思います。「イエス様、先生、どうか私たち憐れんでください。」