2020年12月6日 ルカによる福音書17章20~37節 「天国」
今朝の説教のタイトルは、ずばり「天国」ですけれども、皆様は天国と言ったら、何を思い浮かべるでしょうか?私は、天国というと、小さい頃は漠然と、天空の城ラピュタのように、雲の上にお城があって、とりあえずその中には、お菓子やおいしいモノが溢れていて、何不自由なく、飲み放題食べ放題、楽しみ放題できて、みんなが笑って遊んで暮らせるような場所という、イメージがありました。
あの京都の金閣寺も、あれは極楽浄土をこの世に表現したものだと言われていますので、金閣寺は足利義満なりの天国のイメージということだと思います。いずれにしても、天国という言葉によって普通イメージされるものとは、それは、すべてが光と輝きに溢れる、楽しく理想的な世界ということになると思います。
今朝の御言葉には、神の国という言葉が出てきます。そして、神の国とは何か、それはどういうかたちでもたらされ、実現されるのかという、聖書が語る色々な事柄の中でも特に大切な指針が語られて、ここでは言わば、聖書がもたらす救いとは、最終的にはどんな救いなのかということが語られるのですけれども、神の国という言葉は、もう既に、ルカによる福音書の中でも度々出て来ました。その意味は、神様の支配ということです。私たちの国ではなくて、神の国ですから、そこでは神様が王様として、国のすべてを治め支配される。そういう神様が王になられる神様による国が実現されて、その中に私たちが入り、与ることができる。これが聖書が指し示す救いの内容でもあります。
結局のところ私たちは、最終的には、救われたらどうなるのでしょうか?先週の御言葉には、信仰によって救われた人が出てきました。主イエス・キリストに出会い、主イエス・キリストを信じ、その方によって清くされて、癒されて、神を賛美して、神様を礼拝して生きるようになった。そうなって、じゃあそういう人は、最終的にはどこに行くのでしょうか?最後、どうなるでしょうか?そうやって突き詰めていった先で、聖書は、天国を語ります。今生きているこの命が費えて死んだら、もうそこですべてが消去され、電源がオフになるということではなくて、新しい国に入る。そこでは、神様が王となられ、罪や死が支配しない国が来る。パラダイスということを、聖書もちゃんと語っています。そして今朝は、そのパラダイス、天国を、神様の国を、聖書がどう語っているのか?その天国は、私たちが考える天国と、同じなのか違うのかという、私たちにとってとても大事なことを、今朝は聖書によって教えられたいと思います。
神の国とは、それを簡単に、おしなべて言えば、それは天国のことですが、今朝の御言葉の始めで、ファリサイ派の人々が、「神の国はいつ来るのか」と、主イエスに尋ねました。つまりいわゆる、死生観の先にある天国観を、彼らは主イエスに問うたのです。主イエスは20節の後半からの言葉をもって答えられました。
「神の国は、見える形では来ない。
『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」
「来ない」ということと、「そこにある」という、一見矛盾することが同時に語られています。神の国は、見える形では来ない。しかし、実に、神の国は、あなたがたの間にある。このように言われる神の国とは、いったい何なのでしょうか?今朝は、もう最初に答えをズバリ申し上げたいと思います。その答えとは、神の国とは、主イエス・キリストだということです。単なる神の国ということならば、もう20年前になりますが、当時の森喜朗首相の神の国発言というのがありました。「日本の国、まさに天皇を中心としている神の国」とその時彼は語って、その翌日に、「その神は天照大神でも、日蓮でも、おしゃか様でも、イエス・キリストでもよい。自分の信ずる神仏でよい。」と釈明したのですけれども、そういう、どこの誰の国なのか分からない神の国ではなくて、聖書が語る神の国とは、どこまでも、主イエス・キリストの国、主イエス・キリストの神の国です。
今朝は本当にそこを、皆ではっきりと掴みたいのです。ぼんやりと、なんとなく、天国、いいところ、そこは神の御国、という風にとらえるのではなくて、はっきりと、神の国イコール、イエス・キリストだと。イエス・キリストの国こそが天国だということを腹に据えたいと思います。そうするとどうなるか?天国のイメージが、全く違うものになるのだと思います。
神の国は、見える形では来ない。これについてはこの後でさらに深く考えていきたいと思いますが、主イエスは21節で続けて、「『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」と言われました。神の国イコール、イエス・キリストということが分かる時に、この言葉が分かります。
「神の国はいつ来るのか」と尋ねたファリサイ派の人々の中には、既に、早く来ないかなと待ち望んでいる、彼らの理想の神の国の形がありました。それは、ユダヤ人の国が、ローマ帝国の植民地となっている状態を跳ね返して、紀元前1000年にダビデ王が作ったような、強い国として復活するという、そういう権力と国力奪還の念願が彼らにとっての神の国あり、ユダヤ人の中から必ず救い主メシアが表れて、それを成し遂げてくれるはずだという期待を彼らは持っていました。
しかし主イエスはそういう神の国は来ないのだと否定されて、「実に、神の国はあなたがたの間にある」と言われました。なぜなら、主イエス・キリストが、この時、まさにユダヤ人の中から現れた救い主メシアとして、ユダヤのベツレヘムに生まれられて、彼らの目の前に立って話しておられるからです。今からくるのか?まだ来ないのか?ではなしに、クリスマスに主イエス・キリストはすでに来られて、神の国はこの地上に来ました。
そして、神学校で私が講じている教会論では、これが中心的な概念になるのですが、クリスマスに主イエスが生まれられたことによって、神の国は地上に来て、その神の国はイエス・キリストによって、すでに始まったと、神学的には表現されます。そして主イエス・キリストによってはじめられた神の国は、いまだ完成には至っていないとされて、神の国は、すでに始まったが、いまだ完成していないという、建築中の建物のような言い方がなされます。
そして聖書が語る天国とは、実は、そういうものなのです。天地創造の初めに、天地創造という言葉そのものが既に指し示しているように、神様は天と地とを創造されました。天国も、創世記の初めに造られたものなのです。そしてその天から主イエスは来られ、最終的に聖書の終わりに書かれている見通しによれば、神の国の完成の時、歴史が完成する時に、天国が天から降りてきて、この地上と一つになる。最終的には、地上と天国が合体して、この地上世界全体が、天国になる。それが、神の国の完成の時とされています。主イエス・キリストによって、部分的にこの世に到来して、そこですでに始められた神の国は、教会を用いて徐々に成長し、最終的には地上のすべてが天国と化する。
次の22節から、主イエスは重ねて言われました。「17:22 それから、イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたが、人の子の日を一日だけでも見たいと望む時が来る。しかし、見ることはできないだろう。17:23 『見よ、あそこだ』『見よ、ここだ』と人々は言うだろうが、出て行ってはならない。また、その人々の後を追いかけてもいけない。17:24 稲妻がひらめいて、大空の端から端へと輝くように、人の子もその日に現れるからである。」
22節に、人の子の日、という言葉があります。人の子とは、主イエスが、御自分のことを指す言葉として言い表された言葉です。ですから人の子の日とは、言い換えれば、イエス・キリストの日のことです。そして聖書の中で、誰々の日、という言い方がされる時、その日は、その名前が示す当人が現れて、すべての事柄の決着をつけるとされています。聖書の他のところには、「私たちの主イエス・キリストの日に、非の打ちどころのないものとされる」という言葉もあります。
そういう、人の子の日、イエス・キリストの日、イエス・キリストがすべての決着をつけてくださり、御自分が始められた神の国を完成させてくださる、天国が仕上がる日が、必ず来る。それは、大空を横切る大きな稲妻が、どこの誰からも目視されるように、誰の目にも明らかなる形での、イエス・キリスト出現が起こるのだと、24節にあります。
でも22節には、その日が来る前に、「あなたがたが、人の子の日を一日だけでも見たいと望む時が来る」と、私たちが、その日まで待てない、すぐに主イエスに会いたいと切実に願う日が来るのだと言われています。なぜか?それは困難があるからです。今が苦しい。早く天国を見たい、早く天国に行きたいと、それを切望せざるをえないような、この人生をこのまま生きていくのが耐え難いと思う日が実際に来る。そういう日を、あなた方は皆、経験するだろうという、とても現実的なことが、ここで言われています。
先に極楽浄土があるのか、はっきりとは分からないけれども、とにかく、今よりはいい場所であるはずだし、いい場所であって欲しい、もう早くその天国に行きたい。こう思う日があなたがたの人生に来る。しかし、続いて主イエスが言われたのは、「しかし、見ることはできないだろう。『見よ、あそこだ』『見よ、ここだ』と人々は言うだろうが、出て行ってはならない。また、その人々の後を追いかけてもいけない。」という言葉でした。
どういうことなのでしょうか?これは、惑わされてはいけないということです。人々は、「見よ、あそこだ」「あれが天国だ、ここに天国があるぞ」と、違う天国を指さすからです。ドラッグ、アルコールで感覚を麻痺させて味わわせる、実体のない、雲をつかむような、偽りの天国。死を美化して、とにかく死ねば楽になり、ユートピアに行けるのだと無責任にも吹聴する天国詐欺。信者獲得、献金のノルマ、そういうもので天国を切り売りして、それで商売をする、天国のことなど実は考えずに、地上のお金に執着しているだけのような宗教もたくさんあります。
しかし、惑わされてはいけない。なぜなら、天国は、イエス・キリストなのだから。イエス・キリストと関係のない、イエス・キリストの名前が出てこない、そこにイエス・キリストがおられない天国なんてないからです。
そしてその天国は、イエス・キリストの国ですから、天国はイエス・キリストのその生涯の先に建国される国です。すなわちそこへの道は、主イエス・キリストの十字架を経由しないでは通じないわけです。主イエス・キリストによって始められた天国は、必ず、主イエス・キリストによって片を付けられて、最後には完成に至るのですけれども、しかし、25節。「17:25 しかし、人の子はまず必ず、多くの苦しみを受け、今の時代の者たちから排斥されることになっている。」天国での王となってくださる主イエス・キリストは、どこかの大きな国の大統領のような王ではなく、南の島にいくつも邸宅を持っているような大金持ちで、民に金をばらまくような王でもない。イエス・キリストは、人に裏切られ、苦しめられ、痛めつけられ、多くの人から排斥される。戦車にではなくロバに乗り、町はずれの馬小屋で生まれ、さらに町はずれの裏山の木にかけられて干からびて死なれた、キリストは、本当に低きにくだる王です。ですから、上を見ている人には、見ることができず、出会うことができない王です。そのことが、27節から33節に書かれています。
「17:27 ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていたが、洪水が襲って来て、一人残らず滅ぼしてしまった。17:28 ロトの時代にも同じようなことが起こった。人々は食べたり飲んだり、買ったり売ったり、植えたり建てたりしていたが、17:29 ロトがソドムから出て行ったその日に、火と硫黄が天から降ってきて、一人残らず滅ぼしてしまった。17:30 人の子が現れる日にも、同じことが起こる。17:31 その日には、屋上にいる者は、家の中に家財道具があっても、それを取り出そうとして下に降りてはならない。同じように、畑にいる者も帰ってはならない。17:32 ロトの妻のことを思い出しなさい。17:33 自分の命を生かそうと努める者は、それを失い、それを失う者は、かえって保つのである。」
自分の命を生かそうと努める者は、それを失う。つまり、自分の飲み食い、売り買いという貪欲、自分の恋愛結婚という情愛にだけ精を出して、自分の命を生かそうとする者は、死ぬ。イエス・キリストの神の国にそれでは入れない。そういう人は、キリストがそこにおられて、十字架に架かっておられるのに、全く目もくれないからです。
34節から35節にも、厳しいことが言われています。「17:34 言っておくが、その夜一つの寝室に二人の男が寝ていれば、一人は連れて行かれ、他の一人は残される。17:35 二人の女が一緒に臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、他の一人は残される。」
大多数の人がそうやってるから。自分だけじゃないから、二人いればきっと大丈夫だろうと思って一緒に寝る。一緒に仕事をする。そうやってこの人と一緒に組んでいれば、自分だけ脱落してしまうことはなく、無事に天国に行けると考えるかもしれないが、そうはいかない。一人一人が、自分を問われる。あなたは、長いものに巻かれてはいけない、という言葉です。
そして37節の最後の言葉は、一つのことわざです。「17:37 そこで弟子たちが、「主よ、それはどこで起こるのですか」と言った。イエスは言われた。「死体のある所には、はげ鷹も集まるものだ。」死体には必ずハゲタカが群がる。同じように、本当に主イエス・キリストを視野に捉えて、その方を見つめ生きる人のもとには、必ず、主イエス・キリストが来てくださる。
聖書の一番終わりの、ヨハネの黙示録の終盤の21章に、神の国の完成が訪れる時、つまりイエス・キリストの日に、何が起こるかが書かれています。今朝の招きの言葉でもお読みしました、ヨハネの黙示録21章の3節4節の御言葉です。「21:3 そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、21:4 彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」
涙は、普通、自分の手で拭うものだと思います。けれどもその日には、主イエス・キリストが、私たちの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。そしてそのキリストによって、そこにはもはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もなくなる。これが天国です。主イエス・キリストが、私の目の涙をぬぐってくださるほどに、顔を近づけてくださって、本当に私に向き合ってくださる。もうそれだけで泣けてきますけれども、私ならもう顔全体ぐちゃぐちゃになって鼻も出ちゃいますけど、きっと主イエスはそれも含めて、よし、そうだったか、よく分かった、と言って、すべてぬぐい取ってくださる。
お菓子の国で極楽三昧というどころの話ではない、主イエス・キリストがおられるところが私たちの天国です。それ以上の救いはありません。その天国が必ず来る。そして同時に既に来ている。その主イエス・キリストが、既に、私たちと共に、私たちの間に、この教会の交わりの中に、今、いらっしゃる。このことに、私たちの主イエス・キリストに、今朝、心から感謝いたします。