20201213日 ゼカリヤ書9917節、ヨハネによる福音書121219節 「王がロバで来られる」

 来週はいよいよクリスマスです。そして今この私たちは今朝、教会の暦で言う、アドベント、待降節の第三日曜日を迎えました。待降節は、読んで字のごとく、イエス・キリストが天から降ってきてくださる、クリスマスの訪れを待ち望む時です。

 先週の御言葉に、神の国という言葉が出てきました。それは天国を意味する言葉であり、その国の王は、主イエス・キリストであるということが語られました。それならばクリスマスは、その神の国を樹立される王様の、主イエス・キリストの到来の日です。

 

 今朝、旧約聖書のゼカリヤ書9章を読みましたが、ゼカリヤ書は、国が戦争に負けて廃墟のような状態になってしまったところで、絶望状態に陥ってしまったイスラエルの民に向けて語られた言葉でした。

 ゼカリヤ書は、どん底の状態にいる人々に対して、先程の99節の言葉を語りかけています。

9:9 娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者/高ぶることなく、ろばに乗って来る/雌ろばの子であるろばに乗って。」

 今、 コロナウィルスのこともあり、私たちの国が、世界が、めちゃくちゃです。人々が疫病に苦しみ、その不安におびえています。踊って喜べるようなこと、歓呼の声をあげるようなことが見当たらない。でもそれは、今以上にこのイスラエルの民にとっても同じでした。しかし彼らに、大いに踊るべきことが起こる。歓呼の声をあげるだけのことがもたらされる。それは何ゆえか?見よ、あなたの王が来るからだと、ゼカリヤ書は語ります。そしてこの言葉が、この使信が、国家的に、社会的に、また人々一人一人の精神的な状態においてもどん底を歩んでいたイスラエルの民にとっての、力の源となったのです。

 王が来る。私たちの王が、新しく来る。状況は、当時の紀元前数百年前のユダヤ人たちも、この私たちにおいても変わりません。私たちも同じ状況に今立たされています。しかしながら、王が来る。私たちの王が、新しく来る。私たちにも今年も待降節が来て、クリスマスが来る。主イエス・キリストがこの地上に来られた日を記念するクリスマスが、今年も来ます。そして、喜び踊り、歓呼の声をあげるだけのことが、今この、現代においても、ここでも起こります。

ゼカリヤ書は、その王がどんな王であり、私たちに何をもたらしてくれる王なのかを語っているように、その王は、神に従う王である。神に従う王、本当に羨ましい限りです。当時は、神様に選ばれたイスラエルの民、つまりユダヤ人でありながらも、彼らの国には、神に従わない王が五万と出てきて、むしろ神様に従う王の方が、非常に稀でした。

そしてさらに、その王は、勝利を与えられた王であるとあります。しかしこの勝利とは、戦争に勝つような勝利ではありません。その際の勝利の質が、この王は他の王とは全く違います。神に従わない他の王ならどう振る舞うか?それが10節の言葉に示唆されています。「わたしはエフライムから戦車を/エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ/諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ/大河から地の果てにまで及ぶ。」

 他の王の勝利は、それは戦車や軍馬に頼って、戦いの弓で相手を射ることによって成し遂げられる勝利ですが、この王は違う。この王は、戦車を絶ち、軍馬を絶ち、弓を折り、その国だけにではなく、諸国の民に平和を告げる。そしてその支配のスケールは、国がどうとか国境線がどうとか、領海がどう、海域がどう、ミサイルの射程距離がどうとか、そういう狭い話ではなく、その平和の支配は、海から海へ、大河から地の果てにまで及ぶ、と語られています。

 そしてその王の姿を9節の言葉が、とても具体的に、まるでこの目に見えるように語ります。「彼は神に従い、勝利を与えられた者/高ぶることなく、ろばに乗って来る/雌ろばの子であるろばに乗って。」

 最近、総理大臣は自衛隊の戦闘機の操縦席に乗っていましたが、この王は、高ぶることなく、ろばに乗ってくる。しかも、ただのろばではなく、子どものロバに乗ってくる。

 

 このゼカリヤ書の預言は、約三百年たった後に、イエス・キリストによって成就しました。今朝二番目にお読みした、新約聖書のヨハネによる福音書12章の御言葉がそれを物語っています。次に、三百年の時を隔てた、新約聖書の方を見たいと思います。

 この時主イエスは、人々からの熱狂的な歓迎を受けながら、首都エルサレムに入城されました。ヨハネによる封印所の1213節の言葉ですが、その時人々は、本当にゼカリヤ書が語っていたように、「なつめやしの枝を持って、迎えに出た。そして、叫び続けた。「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように、/イスラエルの王に。」」

彼らは「なつめやしを持って迎えに出た」と書かれています。なつめやしの枝は、勝利を象徴するものです。そして群衆はわざわざ、主イエスを迎えるために、街から城門の外へ出て行って、迎えに出たと書かれています。昔のエルサレムは分厚い石の壁に囲まれた要塞でしたので、過越祭の巡礼を、人々がひとまずほっぽり出して、城門の外に出て、エルサレムに今まさに辿り着こうとしている主イエスを出迎えた。これは異例の事態を示しています。つまりこれは、ただ単なる有名人や人気者を迎えるということではなく、もっとそれ以上の、王様を、首都エルサレムに迎えるという、王権交代セレモニーのようなことがここで起こっていたのです。

 

しかし群衆のこの熱狂は、このあとすぐに激しい攻撃性に成り代わります。阪神ファンのヤジはきついと言われますが、それは期待の裏返しでもあるわけです。これだけお金と時間をかけて球場に足を運んで、大声を出して応援しているのだから、それに見合う見返りをもらえなければ困る。今日は来て良かったといえるぐらいに、私たちを満足させて欲しい。そう思ってみんな応援をします。しかし、いくら熱狂していても、その見返りが与えられずに、逆にその思いが裏切られると、その熱狂は、今度は、一気に激しい攻撃性になる。応援の声は怒号に姿を変え、人々は試合終了前なのに、球場を後にする。

 先週の御言葉でもそうでしたけれども、主イエスは、「神の国は、ファリサイ派の人々が望むような形で、ユダヤ人の国家的繁栄というかたちでは来ない」と言われました。ですから主イエスは、御自身が神の国の王となられる時にも、人々が望むような形の王にはなられません。

 都の城壁の外まで迎えに出て来て、熱狂する群衆に対して、主イエスはリムジンで乗り付けられたのでも、体格のいい見張り役やガードマンを引き連れてやって来られたのでもありませんでした。有名人には必ずボディーガードがいて、重要人物は必ず一般人からは離れた所で、そこには高い敷居が敷かれて、王様ような人は普通、その高い敷居の向こう側からにこやかに手を振り返したりしてくれるわけですけれども、しかし主イエスは、全く違いました。

実際、この方はどんなスターよりも、どんな政治家よりも王よりも、ずっと権威のある王かつ、神であられる方なのですけれども、14節の御言葉にありますように、この方は、本当に子ロバに乗って、来られたのです。それは、この主イエスこそが、ゼカリヤ書が語っていた、世界に、踊りと歓呼と、勝利と平和をもたらすまことの王だっただからです。

 

ヨハネによる福音書121415節は語ります。「イエスはろばの子を見つけて、お乗りになった。次のように書いてあるとおりである。『シオンの娘よ、恐れるな。見よ、お前の王がおいでになる。ろばの子に乗って。』」

主イエスは子ロバの乗られて、その群衆の中を歩まれました。これは、この方と群衆との間には、敷居は存在しないということを意味しています。主イエスは、高いステージの上に立たないのです。柵もない。ボディーガードも居ません。馬の背中は、高さ2メートル以上にもなりますが、ロバはその半分で、さらに主イエスの乗られたのは子どものロバです。その背中は1メートルに達しないかのような低さであり、もしかしたら、ロバに乗りながらも主イエスの足は、地面をついてしまっていたかもしれません。そういう格好の良くない状態です。立ち上がってさっさと歩いたほうが目線も高くなるし、その方がはるかに速いような、そんな状況だったのです。

「主の名によって来られる、イスラエルの王」と群衆は叫びましたが、イエスという王は、こういう王です。敷居がない。拍子抜けするような小ささで、ノロノロ歩く子ロバを用いてくださるやさしさで、周りの群集や、子どもたちの手までも届くような低さで、この王は、一番遅い人のスピード、一番弱い人の弱さ、そこに届くために、そこに届く王として、来てくださるのです。

そして垣根がないということは、この方が、群衆の熱狂と、そこに潜む暴力性、攻撃性にさえも、御自身がまともにさらされるということを意味しています。群衆が主イエスに期待していたのは、詰まるところ政治的な力と、そしてお金でした。巨大なローマ帝国に一矢報いて欲しい。この私たちを導いて、世界の中心を、再びこのユダヤのエルサレムに呼び込んで、それによる豊かさ裕福さを、今こそ実現させて欲しい。そういう意味において、私たちを救ってくれ。そういう王よ、ホサナ、万歳、というのが、彼らの熱狂を支えていた願望でした。

しかし主イエスは、そういう意味での群衆の願望に答えるためには、歩まれませんでした。象徴的な事柄として、この時主イエスの傍らには、このエルサレム入場の数日前に、死から蘇らせられたラザロがいました。そして主イエスが与えてくださる救いとは、そのラザロに起こった命の救いを、全ての人々のために勝ち取るということだったのです。

そのために主イエスは王として何に勝つのか?死に打ち勝つのです。この王様は、自分の体もろとも、人の罪と人の死を、十字架に張り付けにして滅ぼして、本当に、戦争がないどころの平和ではない、死を滅ぼすという平和を、命の王として、成し遂げてくださる。その時、人は人と争うことなく、また人は命の源であられる神様との間にも平和を勝ち取る。死という根本的な悲惨を、命に変えるという平和、それを勝ち取るために来られた王が、この主イエス・キリストです。

 

主イエスは、この群衆の熱狂が、ほんの一週間後には呪いの声に変わって、この同じ群衆の怒号の中で、皆に唾を吐かれながら自分は十字架で殺される、ということ知っておられました。

けれども主イエスはボディーガードをつけず、やがて裏切る群衆の浅はかな熱狂をも、「何を、適当なことをぬかすな」と非難されず、甘んじて、喜んで、受け取ってくださり、群衆の、そしてその背後にいるこの私たちの良い面も悪い面もすべて受け入れて、そういう者たちを愛して、その者たちの救いを勝ち取るために、そういう者達が掲げる、しゅろの葉の旗振りの中を、王座に就くためにではなく、十字架で血を流すために、ロバで、歩んでくださいました。

 

この群衆に、自分の姿を見る思いです。結局は自分のことばかり、自分のことだけをいつも考えながら生きているのが私たちです。先週のルカ福音書の言葉にも、「ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた」とありましたが、今のコロナウィルス禍においても、Go Toがどうのとか、年末年始の新幹線のチケットがもう売り切れているか、結局政治家も含めて、自分はかからない、自分は大丈夫だと思っていて、結局は、自分の気に入ることを優先して、変わらず食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしている。人への気遣いや、神様のことを考えることなど、自分のことに執着する時間と比べるならば、実際のところ、それはほんの一瞬の瞬間でしかありません。本当に見るべきものを見ていない場合が多く、この信仰も、時に熱狂して熱くなったり、ある時にはすぐ冷めて、全くそうではなくなったりと、実に断片的です。

けれども主イエスは、そういう私たちの中に、丸腰で、ロバに乗り、御自分の身をさらしてくださる。垣根無しで、肩を組んで、手をつなげる距離に、そして、急に裏切る私たちが、怒りにまかせて、力任せに振る拳が直に当たる距離に、物を投げれば当たってしまう近さに、主イエスは、御自分が傷つく危険も顧みずに、恐れず入ってきてくださいます。そしてこの方は、そういう私たちが、ほんの一瞬だけの、神様から見れば、ほんの気まぐれのような小さな信仰で手を振るときにも、本当に一瞬だけこの手を組んで、捧げる小さな祈りにも、しかししっかりと答えて、その手を振り返してくださいます。この私たちが、どういう私たちであってあっても、子ロバにまたがる、低く近い、その視線で私たちに向き合ってくださる、主イエスを、私たちは今朝改めて、この自分の隣りに発見したいと思うのです。

今、この礼拝の真ん中にも、この主イエスは来てくださっています。このつたない説教者が語るつたない御言葉の取次ぎにも、主イエスはしっかり腰掛けてくださり、それを通して、私たちそれぞれの心の砦の中に、優しく入城してきてくださいます。そして主イエスは、この私たちが捧げるこの礼拝、またコロナによってつぶやく程度になっている小さく短いこの賛美の中にも、主イエスは喜んで訪れてくださり、そこにいて、これを喜んでくださるのです。

私たちのこの心を、改めて今、待降節の心に、整えられたいと思います。平和の王主イエス・キリストが、私たちの下に来てくださるのを待ち望む心を、神様がぞれぞれの内側に形作ってくださいますように。「王がロバで来られる。」この王を、今ここに、共にお迎えしましょう。その喜び、踊るような期待。私たちはそれを胸に、キリストを見上げて、新しい一週間に踏み出したいと思います。