2020年12月27日 ルカによる福音書18章1~8節 『祈りは届く』

 今年最後の、日曜日の礼拝です。私たちは今年、ルカによる福音書の御言葉を毎週順番に読み進めて来てだけですけれども、しかし不思議と、その時々に、私たち皆にとって必要な神様からの言葉が、ルカによる福音書を通して与えられてきたのだと思います。そしてそのことは、年末の今年最後のこの礼拝にも当てはまります。

 今朝のテーマは祈りですけれども、私にとって、コロナウィルス禍の期間は、祈りによって始まりました。そしてこの他に類を見ないような一年間は、祈りについて語る中で閉じられようとしています。緊急事態宣言が47日に出され、板宿教会の礼拝がオンラインになったのは、412日から5月末まででした。そんな中、私は色々な集会が中止になり始めた3910日、全国学生会オンライン修養会の講師を務め、そこでのテーマが、「祈りの実践」だったのです。その時の講演で強調したのは、祈りとは、ただ願うことではなく、神様と結びついて、神様と一緒に時間を過ごし、神様のもとで憩う憩いの時間だから、疲れたら祈りましょう。力がなくなったら、その時にこそ祈って、元気になりましょう、ということでした。

 そして今思えば、それは何より、この自分自身が、このコロナの一年を生き抜くためにも、それは必要な言葉でした。コロナになって、急に疫病退散のアマビエという妖怪が取りざたされるようになり、私が時々ジョギングに行く須磨海岸にも、「海水浴禁止、ソーシャルディスタンスを取って」とアマビエが注意しているかたちの看板があって、個人的にはかわいさというより、気持ち悪さが先に立ってしまうのですけれども、疫病退散の願いを込めたアマビエの絵があちこちに描かれて、今年は街のあちこちにアマビエを見るようになりました。多くの人々は、疫病の退散をアマビエに対して祈っているのでしょうか? それとも別の何かに祈っているのでしょうか?あるいは人々は皆、祈るということ自体、していないのでしょうか?

 祈るということは、祈る対象を信じることに他なりません。そこまで厳密に考えずに私たちは祈るのかもしれませんが、筋道を立てて考えるならば、祈る相手が今生きていて、この自分の祈りの言葉を聞いていてくれる。この祈りがそこに届き、そして祈りの言葉によって相手が動いてくれるという、祈る対象への信仰と信頼が前提となって、祈りはなされるはずです。

 そしてこのコロナウィルス禍の時代は、祈りなしに生きていくには難しすぎる時代です。祈りの向こう側に生きておられて、私の祈りを聞いてくださる神様を信じ信頼すること抜きで、この時代を生きることは、あまりに頼りないことであり、辛いことです。右往左往するマスコミの言葉や、ネットのタイムラインに流れてくる無責任な言葉にすがっていたら、すぐにこの心がボロボロになってしまいますので、古い讃美歌に、「この世のつとめいとせわしく、人の声のみしげき時に、内なる宮に逃れゆきて、われは聞くなり主の御声を。」という歌詞がありましたけれども、そのようにして、私たちは、ウィルスのない新鮮な空気を吸い込むように神様の言葉を聞いて、それをこの心に吸い込む必要がある。そしてそれを可能にするのが祈りなのです。

 個人的なことですが、コロナウィルスに振り回されたこの一年間、私は本当に、祈りによって支えられ、癒され、なんとか正気を保つことができました。その祈りについて、奇しくも一年の最後の日曜日にも主イエスからの直接の言葉を共に聞き取ることができることを幸せに思います。今朝もまた心して、この神の御言葉を受け取りたいと思うのです。

 

 主イエスは今朝、たとえ話を語られたのですけれども、しかし最初に、これが何を教えたいがためのたとえ話なのかを仰いました。それが181節です。18:1 イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。」

 ここで、今朝の御言葉を読み違わないために、最初に確認しておきたいことがあります。それは、今朝のこの御言葉は、いつも、絶えず祈るようにとの、もっと祈りの数を打てと教える御言葉ではない、ということです。1節の初めに、気を落とさずに、という言葉が入っています。そしてこれがとても大切なことです。つまり結論から言うならば、ここでは、とにかくずっと、絶えず祈ることが求められているのではなくて、気を落とさないで祈ることが求められています。つまり、祈って祈って祈って祈り倒すガンバリズムが求められているのではなくて、心折れずに、諦めないで、神様のことを信じ続けて祈ることをやめない、ということが求められています。この二つのことは、似た事柄のようでいて、実は大きく違うことです。

 そしてその誤解をしないようにそのあとのたとえ話を見ていきたいと思います。2節から5節です。18:2 「ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた。18:3 ところが、その町に一人のやもめがいて、裁判官のところに来ては、『相手を裁いて、わたしを守ってください』と言っていた。18:4 裁判官は、しばらくの間は取り合おうとしなかった。しかし、その後に考えた。『自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。18:5 しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない。』」

 不正な裁判官が出てきます。 不正を行う者は、いつの時代も権力と財力とに癒着しています。当時の裁判官もローマ帝国という巨大な権力に従属する不正な裁判官たちばかりで、賄賂なしには動かない、賄賂で正義が売り買いされる状況でした。

そして私たちの時代にも全く同様に、不正な裁判官、逮捕されるような不正な検察官、不正な政治家がいます。つまりこのたとえの中に出てくる、正義が捻じ曲げられ、不公正によって弱い者が虐げられ牛耳られている状況は、今の私たちの時代にも全く同様に、毎日日常的に起こっている現実です。このたとえ話は、決して絵空事のファンタジーではなく、今ここで起こっている現実だと言わざるを得ません。

 しかし、そこに、一人のやもめが、未亡人が登場します。この女性は、弱い立場にいる人々の代表者としてここに立たされています。このやもめは、弱い立場にいるにもかかわらず、その上さらに不当な扱いを受けて、自分に非はないのに、強い立場の人から何かを搾取されたり違法に強奪されたのだと思います。しかし今では考えられないぐらいの男性中心社会である当時、やもめに、賄賂を送るための財力やコネがあるはずがありません。そのことによって彼女は、大変絶望的な状況に置かれています。

 1節の終わりに、「弟子たちにたとえを話された」とありますように、このたとえ話は、弟子たちに対して、つまり主イエスに従う者たちに対して特に向けられている言葉でもあります。つまり、このたとえ話を通して主イエスが弟子たちに伝えようとされていることは、具体的に、このあと弟子たちに同様の厳しい事態が起こること。それが、主の民にも、キリストに従う者たちにも、特に強い危機が生じるということです。

今、香港のキリスト教会は激しい迫害と戦っています。教会は、「香港2020福音宣言」という、イエス・キリストこそ、教会の唯一の主であり、教会はその福音の証人の共同体であり、教会は、真理の柱また土台として、虚偽を拒絶し、真理を堅く守る。」という趣旨の、シンプルな福音宣言を出しましたが、しかしそれだけで、教会が攻撃を受け、牧師たちが逮捕を逃れるために国外に亡命するような事態になっています。そして何よりも、聖書が記すように、この主イエス御自身が、このあと不正な裁判にかけられて、不正な十字架刑に処せられました。

 

 そして主イエスは、今朝のこの、既に政治のトップから不正に染まっていて、そのツケを、弱い立場にいる人たちが、払わされ、その被害を被っているような日本社会に生きて、その理不尽を目の当たりにしている私たちに、さらにコロナウィルスに取り囲まれながら、この異常な一年を終えようとしている、この私たちにも言われるのです。その気落ちせざるを得ない、絶望的な状況の中で、「気を落とさずに、絶えず祈れ」と。

 

 しかしこの状況では、やもめの力では、力も金も権力もない私たちでは、どう考えても無理なんです。腐敗した政治が祈りで治るでしょうか?ウィルスを祈りの力で弾き飛ばせるとでも言うのでしょうか?祈りで世界が変わり、私が変わり、私の生活や働きや人生が変わるのでしょうか?祈っても、無駄なんじゃないか?祈ったところで、何の効果も変化も生じないのではないか!現に生じていないではないか!

 

でもやもめは、気を落とさず、諦めなかった。そうしたら、神をも人をも畏れないような不正な裁判官が、何と、変わったのです。彼は「このままだと、ひっきりなしにやって来て、わたしを散々な目に遭わすかもしれない。いや、そうに違いない。」と、気を落とさず諦めないやもめのことが、恐ろしくなって、恐れに取りつかれた裁判官は、「このやもめはわたしを散々な目に遭わすに違いない。」と思わず弱音を吐いた。

 その瞬間に67節です。18:6 それから、主は言われた。『この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。18:7 まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。』」

 「この裁判官の言いぐさを聞きなさい。」と。やもめの折れない心が、不正な裁判官の心をへし折ったのだと。しつこくやもめが訴えたからではないのです。やもめの迫力に裁判官が押されて、「これはひっきりなしにやって来て私がひどい目に遭わせられてしまうパターンになるかも」と、威圧していたはずの裁判官の方が、やもめの熱意に威圧されたのです。

 7節に、「まして」という翻訳が記されていますが、私はこの翻訳に反して、元々、ギリシャ語で「デ」という、「しかし」という言葉なので、ここは「しかし」ときっちり逆説で訳すべきだと思います。なぜなら、不正な裁判官と神様とは、全く正反対の、全く違う考え方をされる方ですので、まして神は、なんていう風に、裁判官にさらに輪をかけて云々…という言い方はすべきではない。神様は、不正な裁判官とは全く違う別の方だからです。

 神様には不正はない。神様は、やもめを低く見て、裁きを行わないということなど絶対しない。この裁きという言葉は、通常聖書に良く出て来る、ジャッジして、白黒分けるという意味の裁く、言葉ではなくて、疑いを晴らして、相手に満足を与えるという意味の、相手を救い出して助けるという、裁くというよりももっと柔らかい、暖かい意味の言葉です。ですから神様は、しかし不正な冷たい裁判官とは真逆で、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちを助けてくださる暖かいお方である。そして神様は、祈る彼らを決してほうっておかれないのです。

 

 最後の8節でも重ねてそのことが言われます。18:8 言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」

 言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。裁判官と違って、神様は弟子たちを、祈る者たちを、助けてくださいます。そしてこの8節の「しかし」という言葉こそ、しかしと訳すべきではなくて、「まして」とか、「ところで」という風に訳されるべきだと思います。人の子、主イエス・キリストは、私たちの目に見えないままで、ずっと助けに来てくださらないのではない。17章の終わりにも言われていましたように、必ず、人の子の日に、イエス・キリストの日にまたやって来て、その日、すべてにかたをつけてくださる。人の子が来るとき、地上に信仰を見いだすだろうか。主イエスは私たちの信仰が長続きするのかどうかを疑っておられるのではなくて、その再臨の日にも、諦めずに祈っている人々がいることを期待して、信じてくださっています。そして、速やかに、すぐに助けに来るからなと、主イエスは私たちに約束をしてくださっているのです。

 

 どんなにこの世の中に不正があり、困難があり、神様の助けを祈りながらも、この状況がどう解決するのか、全く想像もできないということが、コロナウィルスのことだけでなく、実際にはいくつもあります。ずっとそれを抱えて祈っている、色々な祈りがあります。この説教を作りながら、一つの祈りを思い出しました。今から20年以上前、私が初めて韓国に行った時に、韓国の教会の規模の違いに衝撃を受けて、この日本でも韓国のように伝道の進展していくようにと、涙ながらに祈りました。けれどもやっぱり、日本と韓国は違うわけで、その後牧師になって、色々な難しい現実を思い知らされながら、いつしかその祈りを、あの時強くは祈らなくなったことに気付かされました。くじける、風化する、諦める、祈りに疲れて、祈りをやめてしまうということが、真剣で切実な祈りであればあるほど、時に起こります。

 

 けれども主イエスは今朝、この私たちに、くじけるなと、気を落とさず祈れと、私は眠っているわけでなくすぐに助けに行くからと、天から伝えてくださっています。まだ実現していない事実を信じるのが信仰であるなら、逆境でこそ力を発揮するのが、信仰であり祈りです。絶望的な状況でこそ、踏みとどまれるのが信仰の力です。逆境にこそ強いのが本当の信仰者であり、そこでこそ、希望を捨てないのがキリストの弟子たる私たちです。

 

コロナの収束を祈っていますけれども、逆に感染者は過去最多を更新しています。現実は容易に変わりません。韓国で祈った祈りも、今だ叶えられていません。しかし、それらの祈りは、却下されたとは思っていませんし、そう思わなくて良いとこの御言葉は語っています。

色々な事が分らなくて、様々な不条理があったとしても、こっちを見ていてくださり、私たちの祈りを待って、この祈りを聞いてくださっている天におられるイエス・キリストを見あげる時、そこに、祈る勇気が与えられます。

祈りとは、その神様への信頼です。祈りは励ましであり癒しです。神様を信頼して、神様の懐の中へ、その声の響く方へと、耳を傾け、入って行くのが祈りです。神様との間では、私たちは安心して、マスクも外して、心を開いて、密になれる。その実現が祈りの時間です。そこから、不条理の中を生きる勇気が与えられるのです。

 全く不確かで予想のつかない来年の予定表を今作っていますが、神様に祈りながら、この年を越し、新年に臨みたいと思います。不正な裁判官とは違う神様ですから、神様は、神の子である私たちに、ちゃんとしてくださる。今年も、最後まで導き、今朝、気落ちするなと励ましてくださったように、来年も神様は、ちゃんとしてくださる。神様の救いと助けがどう来るのか、今は分からなくとも、祈りは届く。神の助けは速やかに来るのです。