202113日 ルカによる福音書18章9~14節『当たり前ではない救い』

 新しい年が明けました。とても静かなお正月でした。そして明日から平日になって、一気にお正月気分も無くなってしまいますけれども、新型コロナウィルスの感染者がかつてないほど増え続けていますし、そんなニュースが躍る中で、皆、周りの様子を見ながら、少し恐る恐る、新年の歩みを歩み出されたのではないかと思います。

 そして今朝のまた、一年最初の日曜日に相応しい、これからの一年の私たちの歩みを導くような主イエス・キリストからの言葉が、聖書を通して語られています。

 

 ところで、まだ若い頃から、今に至るまでに、時々ではあるのですけれども、教会の友達や関係者と、聖書の登場人物で誰が好きか、または誰に一番自分と似たところがあるという意味での親近感を感じるか、というような話をすることがありました。自己紹介の場面などでもそういうことを聞かれたりしましたし、教会学校でも、子どもたちとそういう話をすることも時々あると思いますし、海外では、そういう自分の好きな聖書の登場人物の名前を自分の息子や娘につけるということを、ごく普通に行います。そして私の周囲では、ペトロが好きだという人が比較的多くて、私もそういうことを聞かれたら、そうですねえペトロが好きかなあとか、少し曖昧に返していたのですけれども、正直私は、そういう聖書の有名な登場人物の誰とも、自分は似ているなあと強く思ったことはなく、しかし、聖書の中のある人たちにだけ、圧倒的な親近感と、共感を抱いていました。それはファリサイ派の人々です。

 正確には、私は自分では、ファリサイ派の中のエリートではなくて、律法を守り切れず、徹底できないファリサイ派の中の落ちこぼれという位置付けに、自分が当てはまるなと思うのですけれども、彼らの言動や考え方を見ていると、ああ、本当にこれは自分のことだなと、自分のことが、このファリサイ派の人々を通して言われているなと、他人事としてとても放ってはおけない。この今でも、実は本当にそういう気持ちで、ファリサイ派が聖書に出て来ると、ちょっと複雑な思いを胸に抱えながら聖書を読んでいます。

 ではなぜ、ファリサイ派の人々には、そういうリアリティーがあるのか?それは、彼らの考えていること、やることなすことが、私の、またそれは私たちのこの社会の、と言ってもいいと思いますが、そこにある当たり前と、ぴったり合致するからなのです。彼らは、社会的にはちゃんとしていて、立派で、宗教的にも熱心で、真面目で、アバウトな性格の私には眩しく見えるほど、とてもきっちりしている。まさに、私たちの社会常識からすれば、本当に理想的な人なのです。

 

 主イエスは、今朝のこのたとえ話にファリサイ派を登場させて、1112節でこう祈らせています。18:11 ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。18:12 わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』」

まさに品行方正。このファリサイ派の人は、旧約聖書の律法で命じられていること以上のことをやってのけています。聖書で断食が求められているのは、実際には年に一回の贖罪日の日だけのことです。しかし彼は当時のファリサイ派のやり方に準じて週に二回の断食を行っていた。献げものについても、申命記では、畑や果樹園の収穫物と、家畜からの十分の一を献げよと書かれているのですが、彼は全収入の十分の一を献げている。救われるとしたら、こういう人こそが救われるんでしょうねという人。普通こういう人が、当たり前に幸せになり、神様のお褒めに与るのだろうと誰しもが疑わないのがこの人です。

 

しかし、驚くことに、主イエスがおっしゃるには、そうではありません。私たちの当たり前で、神様は動いていない。救いは動いていない。そして、神様の目線と私たちのこの目では、着眼点が全くと言っていいほど違うのです。今朝主イエスが私たちに仰るのは、そういうことなのです。

この品行方正で立派なファリサイ派の人を、神様の視点で見ると、実は、今朝の9節のように見えるということです。9節。18:9 自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。」

まるでレントゲンで人の心を照射して、その中身を見透かすような主イエスの言葉です。「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。」「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々」とは誰のことでしょうか?この物言いに対して、「私はそんな人間ではない。私は違う」と、誰が言えるでしょうか?

 

うぬぼれて、だとか、人を見下すという辛辣な言葉で言うなら聞こえは良くないですが、自分は正しいという自信と誇りを持って、人の上に立つという向上心と反骨心と強さを持って生きていくことは、それはそれで、良いことなのではないでしょうか?そういう人が祈るために神殿に行って、「自分は、ほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、徴税人のような者でもないことを感謝します。」と祈ったとして、誰が、あなたは間違っていると言えるでしょうか?どこも間違っていないように見えます。

けれども主イエスは14節で、18:14 言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない」と、彼は間違っている。彼は義ではない。彼は正しくない。と言われました。

あれっ?と思うわけです。私たちの当たり前が通用しない。私たちの正義、私たちの正しさというものと、秤が違う。じゃあ誰が正解なのか、誰が義で、誰が正しいのか?

 

主イエスは13節で、たとえ話のもう一人の登場人物について語られました。18:13 ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』」 

もう一人は、徴税人です。徴税人は、罪人と同等の人々として、既に15章で出てきました。その徴税人たちを足蹴にするファリサイ派の人々に主イエスが語られたたとえが、あの見失った羊のたとえであり、無くした銀貨のたとえ、そして放蕩息子のたとえであったわけです。徴税人たちというのは、言うなれば見失われた羊であり、一枚のなくなった銀貨のことであり、出て行って放蕩の限りを尽くす弟息子のような存在でした。その徴税人を、ファリサイ派の人は、先程の祈りの中で、奪い取る者、不正な者だと暗に非難しました。金の亡者であり、ファリサイ派の人と違って、神様など気にもかけないのが当時の徴税人でした。全く模範的でない。褒められたものではない。当たり前に、この人は救われない。こんな人は絶対に幸せになれないはずで、社会的制裁を、そして天罰を受けるべき人だと、すべての人から思われるような、正しくない人が徴税人でした。

しかし、ファリサイ派の人と同時に、その徴税人が神殿に祈りに来た。彼は神聖なる神殿に入ろうとせずに、ただ遠くから、おそらく神殿の中の一番外側の、汚れた異邦人たちのために用意されていた場所に立って、そして当時は、ちょうど礼拝の最後の祝祷の時のように、手を広げて天を仰いで祈るのが普通でしたが、しかし彼は、目を天に上げずに、そして、これは、誰かが死んだときにそれを嘆き弔う所作ですけれども、彼は自ら胸を打ち叩き続けながら、まるで自分自身を葬るような格好で、こう言いました。

「神様、罪人のわたしを憐れんでください。」直訳では「ああ神よ、この罪を償いたまえ」という叫びです。

彼は、自分のこの心の中にある罪を、自分では取り出せない。「ああ神様、何とかしてください。この罪を、私にはできないので、あなたが償ってください。どうか消し去ってください。」と叫びました。

ファリサイ派の人が持っていたような自信も、余裕も、彼にはありませんでした。自分の罪の大きさに対する深い悲しみ。そして、その自分を天から見下ろしておられる神への畏れが、彼の中で満ちていました。そして彼の目には、自分と他人を見比べて人を見下げたファリサイ派のようにして、他人の姿は映りませんでした。ただ彼は、神様の前に、一人の罪人、正しくない者、間違いを犯した者として、一人立っていた。

しかし主イエスは、言われます。14節。「言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」

義とされたのは、正しいのは、ファリサイ派ではなく、徴税人でした。14節の「義とされて」という言葉は受け身の言葉です。救いは、自分の罪を、神の前に深く悟ったこの徴税人に、神様の側から、与えられた。この徴税人は、自らの正しい行いによって、義を獲得して、義となったのではなく、神様によって「義とされた」のです。

へりくだる者は高められる。間違いを犯し、不正を犯し、自分が間違っていたと言う人なのに、そういう自分の間違いを認め、うなだれて、負けを認めた人が、義とされた。正しいとされた。つまり救われた。

 

一年の最初の礼拝で、私たちがこの御言葉を読む意味はどこにあるのでしょうか?自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に向かって、主イエスは今朝語られました。多かれ少なかれ、私たちは、特に私は、ファリサイ派に似ています。当時も今も、人間の社会はファリサイ派的な正しさを良しとします。つまり、この私たちが、この社会の趨勢そのままに、その流れに飲まれて、ファリサイ派的な当たり前を採用して、これで大丈夫だと、これが正しいのだと決め込んで、この一年を歩み出してしまうなら、それは悲劇だと。お前たちよ、それはうぬぼれた生き方なのだと、御言葉は語っているのです。

私たちは、どうしても、こう思っています。私は正しい。私たちは正しいと。人を見下しているとまでは言わないまでも、自分はあの人には勝っている。あの人よりはずっとましだと。そう思いたいのです。でもそう思っている私は、神様から見て、このファリサイ派の人のように、滑稽で、残念で、すごく偏屈で、自分の考える正しさに酔いしれて、それにしがみついている、間違った、うぬぼれた人間なのです。

そして、ここで言われていることは、今年は、もうそういうことはやめましょう。もうそういうとこからくる気持ちで祈る祈りはやめにしましょう、ということです。そんなこと、誰でもやっているし、そういう意味での当り前、立派さ、そういう意味での自分の筋を通そうとする生き方をしたところで、みんなと同じで、そんなの誰でもやっている。

もっと砕かれましょう。もっと学びましょう。もっと、絶えず、柔らかくなりましょう。自分のことだけでなく、人を大切にしましょう。私たちは、自分の正しさやこだわりを越えた、それを打ち砕いてくれる神の御言葉によって自由にされて、そこからくる正しさに、その心を明け渡していきましょう。やるならそこまでやりましょうよ、ということです。

 

罪人とされ、不正なものとされながらも、罪ある自分の胸を自らを葬り去るようにして強く打ち叩き、神様からの哀れみを叫び求めるこの徴税人は、私には、このたとえを話された主イエス・キリスト御自身の姿にしか見えません。罪を罪と認識し、罪ある心を打ち叩き、その赦しを神様に本当に請い願うことのできるこんな正しい人間など、ほかにいません。この正しくされた徴税人のことを主イエス・キリストの姿と重ねてみる時、彼が、「罪人のわたしを憐れんでください。」と祈った祈りは、違う祈りに聞こえてくる。自らが罪人の一人に数えられてくださって、十字架で罰を受けてくださった主イエスが、「罪人のわたし」と言われる時、その時の「わたし」の背後には、この罪ある私たち皆の姿が見えてくるのです。

このたとえ話は、ファリサイ派のようになるなという主イエスから私たちへの戒めであり、そして同時にこのたとえは、とてもこの徴税人のように自分を神様に明け渡したところに立てない私たちへの、赦しへの招きです。偏屈で、分かっていないファリサイ派の分も、主イエスはその罪をその身に担って、その罪をその胸に引き受けて、主イエスは神殿の中に入らず、エルサレムの城外のされこうべの丘で、私たちの代わりに罪を償って十字架に架かり、神様からの義を受け取ってくださいました。それは、正しくない私たちにその義を十字架から手渡し、この私たちのことをも義としてくださり、救ってくださるためです。

 

これで正しい。はい、これで間違いない。そしてもう揺らがない、ということであれば単純で分かり易いのですが、去年と同様、これからの一年もそうはいきません。事柄は複雑で、これが当たり前、これが正しい、という一面的な見方では通じません。

悔い改める者は、恵みの御業によって贖われる。という御言葉がイザヤ書1章にありますが、私たちは絶えず悔い改めて、方向を転換し、修正し続けて、自分が作る小さな正しさから自由になって、その度に神様の赦しと、憐みをいただいて、御言葉から使信を得るという、複雑で、常に微調整と悔い改めと祈ることが必要な道を、自分の胸を打ち叩きながら、神様の正しさがどこにあるのかを、探し求めながら行くのです。そういう風にして、毎週ここ場所に集いながら、何とか歩むこの道を、神様が真っすぐな、正しき道にしてくださるように。そこに身を委ねて、この年も、みんなで共に歩みたいと思います。