2021110日 ルカによる福音書181517節 「心で生まれ変わる」

 今年になって、早10日が過ぎましたけれども、やはりこの年に入ってもコロナウィルスは、政治家に忖度はしてくれませんので、緊急事態宣言が出されても、さらに輪をかけて猛威を振るっており、昨日より今日、今日より明日と、どんどん状況が悪くなっています。そのニュースを見ているだけで疲れますし、どこまで、いつまで警戒すればいいのか分からない、果てしのない形になっています。しかし、今日はそんな私たちに、主イエスからの、少しホッとする御言葉が語られています。私たちは、どんな状況に置かれても、神様の語りかけによって力を得て歩みます。そして今朝も、同様に、今朝の御言葉に御一緒に力づけられて歩み出したいと思います。

 

 まずホッとするのは、今朝の御言葉に、乳飲み子が出て来ることです。他の福音書の平行個所では子どもという言葉が出て来るところを、このルカによる福音書は、乳飲み子という言葉まで書き込んでいます。赤ちゃんの存在は、それだけで回りを笑顔にしますし、みんなが赤ちゃんを取り囲んで、その柔らかさに触れたいと思います。そういう人を惹きつけて、笑顔にする力が乳飲み子にはあります。

 そこにはほかのもっと大きな子どもたちもいたようですが、そういう乳飲み子たちも混じって、たくさんの子どもたちが主イエスの近くに来た。その目的は、当時一般的に行われていたことですが、有名な先生に、子どもを抱いてもらって祝福を授けてもらうためでした。

 シャッターチャンスです。主イエスに子供を抱いてもらって祝福してもらう。記念写真に残したいような微笑ましい場面です。周りも温かい笑顔に包まれるはず、と思うのですが、しかしそうはなりませんでした。主イエスに一番近い立場にいた弟子たちが、それを見て、子どもたちを主イエスのもとに連れて来る人々を叱ったと書かれています。

 主イエスはこのあと、「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」と言われましたが、弟子たちは主イエスとは正反対のことを考えていました。つまり子どものような者たちには、神の国は相応しくないと。

 弟子たちは、子どもたちのことをどう考えていたのでしょうか。これは弟子たちだけのことではなく、当時の社会一般の常識とされていたことですが、今の社会とはむしろ逆で、当時子どもたちは大切にはされていませんでした。むしろ子どもは厄介な存在だと考えられていた節があります。当時は、不貞行為の隠蔽や経済的理由から、妊婦が自分が死なない程度の毒を飲んで中絶をするということが一般的に行われていましたし、間引きと言われる、嬰児殺し、捨て子というものは、当時一番文明の進んでいたローマ帝国でも、合法的な国家政策として実施される日常的なことでした。

 さらにユダヤ人たちにとっての生きる上での最も重要な至上命題は、律法を守れるか、律法を順守した生活ができるか否か、ということでしたので、律法を知らず、祈りや捧げものや善行が行えない子どもたちは、宗教的には救いに値しない存在として、純粋無垢で可愛い子どもたちという見方とは反対の、むしろまだ罪と穢れに染まってしまっているままの存在だと子どもたちは見なされて、宗教的に、救いに至ることのできない存在とされていました。

 

 ですから神様のもとに、主イエスのもとに、わらわらと近づいていくことは、子どもにはまだ早く、子どもにはふさわしくないことだと、弟子たちはそれを制止して、主イエスを警護する私服警官のように振舞ったのですが、しかし主イエスは叱りつけられました。

 1617節です。18:16 しかし、イエスは乳飲み子たちを呼び寄せて言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。18:17 はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」」

 主イエスは、弟子たちに対して、さらに正反対の答えを返されて、神の国は、子どもたちのようなもののものである。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。と言われました。

 

 ここで、この今朝の御言葉の前後の、少し大きな文脈に目を留めたいと思うのですが、実は、先週の御言葉と、今朝と、そして来週の御言葉は、ひとかたまりの、ワンセットの御言葉になっています。そしてこの部分の御言葉が扱っている共通のテーマは、「誰が、どういう人が救われるのか?」「神の救いに相応しいのはどんな人間か?」という問題です。

 前回の御言葉では、神の国に相応しいと自他ともに認めるようなファリサイ派の人が、しかし義と認められないというたとえ話を主イエスが語られました。そして今日は、子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない、と言われ、次に書かれていることは、律法の教えをすべて守っていた金持ちの議員が、それでも永遠の命を受け継ぐには足りないと言われてしまった事件です。そしてそれを見た人々は、その時に、思わずこう口にします。「それでは、だれが救われるのだろうか?」。この、三つでひとかたまりの御言葉は、次週の1826節の言葉へと流れ込んでいくのです。「これを聞いた人々が、「それでは、だれが救われるのだろうか」」と言った。ファリサイ派や、金持ちの議員や、そういうちゃんとした人、不正を犯していない人、敬虔で堅実な人でダメなら、一体誰が救われるというのか?イエス・キリストが語っておられる救いとは、どういうことなのか?どうなっているのか?」この大きな問題が、この連続するひとかたまりの御言葉によって取り扱われています。

 

 そして今朝の短い御言葉には、あれはダメ、これでもダメという二つの反面教師の真ん中にあって、これなら救われるという、救いへの道が指し示されています。それが、神は子どもを妨げないということ、そして、子供のように神の国を受け入れる、ということなのです。世間一般では当然救いから遠いと思われていた子どもたちこそが、救いに近く、救いに相応しい。そして、だからその子供のように神の国を受け入れよと。「子供のように」と言われていますので、これは子供に向けての言葉ではなく、子供ではない大人たちに対しての「大人たちよ、弟子であるあなたたちよ、子供のように神の国を受け入れなさい。」、という言葉です。

 その人自身ももファリサイ派の一員であり、議員でもあった、ヨハネによる福音書に出て来るニコデモという人物は、主イエスから、「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」と言われて、「年をとったものが、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか」と抗弁しましたが、ここでも、子供のようになるとは、子供帰りをして幼くなるとか、子供じみた大人になるとか、子どものごとく、知識を捨てて、何も学ばず、何も考えないようにし、頭を真っ白にして、ひたすら心を無にするがよいことなのだとか、もちろんそういうことが言われているのではありません。

 ここで、乳飲み子という言葉まで使われていることの意味は、子どものように、純粋無垢にということではなくて、乳飲み子のように何もできない、無力さの象徴としての子どものように、ということを示すためです。

 

子供は大人のように様々なことを「する」力がありません。ファリサイ人のように断食することも、献金をすることもできません。また、たとえに出てくるファリサイ人にとって大事なことであった、人に「勝って」、人より「勝る」ということもできません。幼い乳飲み子は、人と自分を比べるという所には立ちません。また、金持ちの議員が手にしていた財産や地位を「持つ」、ということも子どもにはできません。子供は無力で、「する」ことも、「勝つ」ことも、「くらべる」ことも、「持つ」こともできず、子供にできるのは、基本的に、ただそこに「ある」ことだけ、そして「受ける」、「与えられる」ということだけです。そして子供は自分では何もできませんから、与えられるものに対して、絶対的に依存していく。そして与えられるままの形に成長してゆきます。そして、そういう子どもには、具体的には、親に対する絶対的な信頼と、絶対的な依存があります。

 

そして神様は、そういう子どものように、天の父であるわたしのもとに来なさいと、招いてくださっています。神の国に入るために、何もできる必要はない。そういう狭き門、高いハードルは、そこにはない。祝福を求めて私のもとに来なさい。そのあなたを、父親のように抱きかかえて祝福してあげるから。

私たちが、神様の前に子供のようにして、ただそこに「ある」時、ただ存在する時、父親にとっては、子供は何それをしてもしなくても、それ以上に、そこに居てくれるだけで喜びですから、その時には神様が、子どものように近づく私たちにとっての父親となってくださり、神様が私たちの父として、私たち神の子供達を、ふところに抱きかかえてくださるのです。神の子供は、父なる神のふところに安心してもたれかかり、必要な全てを与えられ、豊かに受け取り、養われるのです。私たちは、神の子供です。

 

先日の水曜礼拝のハイデルベルク信仰問答の第一問にも出てきましたように、私たちは、自分の手で自分の人生を満たすために、自分の人生を自分自身でモノにするために、何もかも自分の手で捕まえようとするよりも、この人生を、逆に」神様によって導いていただき、この人生を、私自身のものではなく、この体もこの魂も、生きるにも死ぬにも、イエス・キリストのものにしていただく時にこそ、本当に落ち着く。その時にこそ、満たされ、守られ、安心、安全になる。それをハイデルベルク信仰問答は、人が深い慰めを得るとはこういうことなのだと語っていました。

では、そのように慰めを得て、子供のようになって、神の国を受け入れて、そこに入って、救われたものとして、今日を生き、そして明日から生きていくとは、もっと具体的に、どういう心持ちで生きていくということなのでしょうか?

それは、神様の子供として歩む、この乳飲み子のような私の隣に、いつも神様が父親として一緒に居てくだりながら今日を生き、明日を生きるということです。そのようにして、いつも乳飲み子に寄り添うようにして、神様がそばに居てくださるなら、その時神の国は、私たちの本当の住まいは、居場所は、いつも温かい場所として、私たちのすぐ隣にあるのです。こういう乳飲み子とその親の距離感、近さ、親密さで、神様と隣り合わせに生きるということが、子どものように神の国を与えられて生きるということです。

 

今なお、色々な迷いがあり、不安があり、特にコロナウィルスへの強い緊張と警戒を強いられている私たちですので、私たちは本当に、今日を明日を生きていくための力を必要としています。でも、どんな金持ちでも、どんなに権力を用いて力を尽くしても、それによってそこに入れるようなものではない、豊かな神の国の、神の救いが、力を抜いて、子供のようにそれを受け入れる時、すぐ隣にある。頼れる父親としてすぐ近くにいてくださる神様の前では、この緊張と警戒を解くことができる。神様の前では、自分で自分を守ることから解放されて、愛される子どもとして、守られて歩むことができる。私たちは、洗礼によってその神様のものとされ、聖餐式によってその神様にさらに深く結ばれます。神様のものとされる、子どもとされる、その幸せ、慰め、安らい。ここから来る力と安心によって、隣にある神の御国に力づけられて、今日と明日を歩む。それが神の子どもたちの、子供のように神の国を受け入れる私たちの、歩み方です。