2021117日 ルカによる福音書181830節 「神にはできる」

 今朝は阪神淡路大震災から26年目の117日です。あの地震によって、私たち皆の人生が、まさしく土台から、根本的に揺さぶられました。そして今朝の御言葉も、あの地震の振動に負けず劣らないかたちで、私たちそれぞれの人生を大きく揺さぶり、それを裏返すほどの力を持つ、主イエスの御言葉です。

 今朝の御言葉に登場してくるのは、金持ちの議員です。そしてこのエピソードにおいて特に私たちの目を引くことは、彼が、他の大抵の人々のように、主イエスに出会うことによって病が癒されたり、良くなったりするのではなくて、彼の場合は、「非常に悲しんだ」という、残念な結果に終わってしまったということです。結局、この時彼は、主イエスとの深い対話をしながらも、主イエスのもとから去って行ってしまいました。なぜでしょうか?

 

 ここには、人生の軸をどこに据えて生きるのかという、根本的な問題提起があります。物語は金持ちの議員の質問によって始まります。彼は開口一番、主イエスに質問を投げかけました。18節です。「善い先生、何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」

この金持ちの議員は、どういう人だったのかといいますと、それは23節に記されていますように、彼は大変な、この上ない金持ちでした。さらに彼は、議員と呼ばれています。この議員とは、当時の、ユダヤの教会の役員を指します。当時の宗教的指導者は、そのまま政治的な面においても指導者でした。彼は莫大な富を持つ、また社会的な、そして宗教的な権威も持っている、そして恐らく家柄も良い、人々からも尊敬され、一目置かれている、いわばエリートでした。しかしその、全てを持っている、何の不足もないかのような彼にも、不足があった。それは、永遠の命です。

彼は、この世においては全てを兼ね備えているかのような人物でしたけれども、彼にはそのままでは解決されない問題があった。それは死の不安です。「自分は死んだらどうなってしまうのか?消えてなくなってしまうのか?いや違う、聖書には、死は終わりではなく、死んでから後に与えられる神の国での永遠の命というものが示されている。あとはそれだけだ、それだけが足りない。だからそれを手に入れたい。」と、彼は願ったのです。

 

主イエスは19節で答えられました。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。」

主イエスのこの答えによって、この議員の救いを求める姿勢を鋭く問われていると思います。主イエス曰く、彼は、善いという相手を間違えていると、神様に向けるべき言葉を主イエスに向けている時点で、彼には重大な欠点がある。それは、本当に目を向けるべきただお一人の方である神に、実は目を向けていないということです。

続けて主イエスは答えられました。「『姦淫するな、殺すな、盗むな、偽証するな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」旧約聖書の教えです。「永遠の命を得るために必要なことは既に、すべて、旧約聖書の神様からの御言葉に書いてある。でもそれに加えてあなたは何を求めるのか?御言葉をちゃんと読んでいるのか?あるいは、その上でなお、分からない、教えてくださいと、質問するということは、聖書に書いていないものをあなたが求めているということではないのか?」この主イエスの言葉の背後には、そういう根本的な問いかけが隠れています。

 

彼は、主イエスのその根本的な問いが分りませんので、自分は、分かっています。ちゃんとやっています。「そういうことはみな、子供の時から守ってきました。」と即答してしまっています。「聖書の通りを守っていて、ちゃんとやっているのに、どうしてか、分からないのです。永遠の命の確信が得られないのです。なぜなのですか?私のどこが悪いのですか?」これが彼のスタンスでした。

 

 そこで、主イエスは言われました。22節。「あなたに欠けているものがまだ一つある。持っているものをすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」

 主イエスは金持ちの議員の一番根本的な、ある意味一番痛い一点を鋭く突かれました。それは、どういう一点なのでしょうか?そしてこれこそが、人生の軸をどこに置くのかという問題です。自分を中心において、自分自身のために生きるのか、神様を人生の軸に据えて、それを中心に据えて、神様のために生きるのか?そして主イエスは、自分を中心に据えて生きる、あなたの生き方を変えなさいと言われました。そうすることは、彼にとっては、持っているものをすべて売り払い、貧しい人々に分けてやることなのです。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。

 

 彼はすべてのものを手に入れてきた。しかし永遠の命がまだ足りなかった。だから彼は、主イエスに言わば、お手伝いをお願いした、彼は主イエスを利用したかったです。「あと一つ、それが手に入れば完璧な人生になるので、どうやったらそれが手に入るか、これ以上何をすれば、それを手に入れることができるのか、教えてください。教えてれさえすれば、その方法さえ分れば、あとは今までのように、自分でうまくやってそれも手に入れますので。」

 しかし主イエスは、「そこを変えて、そのスタンスを捨てて、それをすべて売り払ってしまいなさい。人生の軸を、自分自身から私にすげ替えて、そしてわたしに従いなさい。それこそが、あなたに足りない一つのことだ。それこそが、永遠の命を得るために、あなたがしなければならないことだ。」と言われます。

 永遠の命にあずかる、救いにあずかることとは、自分が持っている数ある資格に、新しい資格やトロフィーを足していくことではありません。それは、実は、フライパンでパンケーキをひっくり返されるように、人生がひっくり返ることです。

 それだけに、「救われる」「救われて永遠の命を受ける」ということは、「あれもこれも持っているけれども、さらにそれに加えてもうひとつ」とか、「ついでに、念のためにこれも欲しいから」というかたちで人に訪れるものではなく、それはあれかこれかの二者択一です。それは、自分を軸にして、自分のために生きて、神様とは平行線のまま救いを得られずにいるか、それとも自分の軸を神様にして、神様に結ばれて救いに至るかの、決定的で真剣な、二者択一の身の振り方なのです。

主イエスは、この時、この金持ちの議員にとって必要な身の振り方として、全財産を投げ出すということを、求められたのでした。

しかし、23節。「しかし、その人はこれを聞いて非常に悲しんだ。大変な金持ちだったからである。」とあります。彼は自分を捨て切れなかった。自分のすべてを主イエスに明け渡すという決定的な二者択一に、彼は踏み出せませんでした。

 

まさに今、ディスタンスという言葉が今巷に溢れていますが、私たちは、この議員のように、神様との交わりの間に、距離を取り、バリアーを貼ってしまうのだと思います。全てを神様に委ねない。全てで神様に依存せず、すべてを神様に任せず、すべてで神様を信じ、愛さない。どこかで留保をつけて、歯止めをかける。そして神様との交わりを妨げてしまう、色々なバリアーを、わたしたちは自ら神様の前にこしらえて、ディスタンスを取ってしまうのです。神様に助けてほしい、手伝ってもらいたいと思っているのだけれども、しかし、ここまででもう十分です。ここから先には、その場所にまでは神様に入ってきて欲しくない、ここから先は自分のやりたいやり方で、中心軸はあくまでも自分自身に置きながら、その人生のハンドルを、神様には渡したくない。金持ちの議員にとっては、お金がそのバリアーでしたが、彼はそれを全部施すまではできない。そこまでできないと悲しんだのです。そういう思いが私たちの中にもあると思うのです。主イエスは、そのような私たちの躊躇のある信じ方に対して、それでは足りないとおっしゃるのです。

 

 彼に、主イエスは言われました。24節です。

「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通るほうが、まだ易しい。」

「らくだが針の穴を通る」ことは、不可能なことです。ですので、金持ちが神の国に入ることは、自分のために生きる者が、永遠の命を得ることは、らくだが針の穴以上に絶対に不可能なことなのだ、という言い方です。

これを聞いた人々は口々に、こういわざるを得ませんでした。「それでは、だれが救われるのだろうか」。つまり、「それじゃあ、だれも救われないじゃないか」と。

 「人間の目から見れば、この金持ちの議員ほど、神の国に入れそうな立派な人物はいないのではないか?あの立派な金持ちの議員が神の国に入れないのならば、私たちはなおさらではないか?私たちだって、お金とは言わないまでも、何かしら大切なものはある。それを全く捨てて主に従うことなど、ちょっと非現実的ではないか?らくだを針の穴に通すような不可能なことに、一体だれが成功するのだろうか?」と、私たちも、主イエスに向かって問いかけざるを得ません。

 

しかし主イエスはこの訴えに、主イエスしか答えることの出来ないような答えを持って、答えられました。27節。「イエスは、『人間にはできないことも、神にはできる』と言われた。」

「人間にはできないことも、神にはできる。」主イエスは、「それは人間にはできないことだが、神がやる、私がやる」と言われたのです。

主イエスは今朝、私たちに「捨てよ」と言われました。けれども実は、この私たちのために最も多くのものを捨ててくださった方こそ、この主イエス・キリストに他なりません。金持ちの議員が求めた永遠の命、それは主イエスは十字架にかかり、捨ててくださった主イエスの命、神の御子が与えてくださる神の命です。

 

この主イエスの言葉の真意をつかめなかった弟子のペテロは、28節のところで、「あなたは人間にはできないと言うが、この通り、私たちは自分のものを捨てて、あなたに従って参りました。」と、「わたしはそういう金持ちとは違います。私たち弟子のことを忘れてもらっては困ります」というような調子で口を挟みますけれども、主はさらに29節で言われました。

「はっきり言っておく。神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子供を捨てた者は誰でも、この世では、その何倍もの報いを受け、のちの世では、永遠の命を受ける。」

とても私たちのここに踏み込んでくる、食い込んでくる言葉です。私の家、私の妻、私の兄弟、私の両親、私の子ども、ということではないのです。究極的には皆、この私自身も神のものです。

 

財産は決して悪いものではありません。家も、家族も、子どもも、それを与えられていることは素晴らしいことです。しかし26年前のように、いつ、すべてが壊れるか分かりません。コロナがあろうがなかろうが、いつ自分のこの命が費えるか、分かりません。その時に必要なのは、主イエス・キリストからいただく永遠の命です。自分の思いにこだわって、でも財産があるから、家があるから、妻のことがあるから、兄弟のことがあるから、両親のことがあるから、子どもたちのことがまだいろいろ大変で。それを言い訳にして今のままとどまっていたら、私たちにちゃんと変わらない明日があるのかどうか、明日どうなるか、全く分かりません。

自分の財産を投げ出して、すべてを後ろに放り投げる気持ちで神様に身を委ねたら、そのあとにはもうジリ貧の、つまらない生活に、自分の思うようにいかない窮屈な生活に落ち込んでしまうのではないかと、この金持ちの議員は思ったのかもしれませんが、事実はその真逆です。

永遠の命。それがあったらもう永遠に死なないわけですから、無敵、最強です。何も自分を殺せないわけですから、何も自分を恐れさせるものは無くなります。そしてそこには、自分はもう、神様によって命を得ているという喜びがあり、安心があり、自由がある。永遠の命は人生を変える大きな力です。

こんな、今の私を、幼い子どもを抱きかかえる父親のように、全面的に受け止めてくれる人間なんて誰もいません。しかし、それをしてくださる神はいる。人間にはできないことも、神にはできる。神が命懸けで、この私に命を与えてくださる。疑い深くて、色々あれこれ言いながらも、いざとなったら勇気のないこの私を、神を信じ、神と共に生きる私に変えてくださる。本当に執着心が強くて、我が強くて、人から何を言われても変われない私を、自分で決意したことも守れない私を、人によっても、自分の決意や力によっても変われない、とても救いがたいこの私を、針の穴を通す繊細さと大胆さと、神様にしかできないやり方で、神は救ってくださる。神にはそれができる。