2021年1月24日 ルカによる福音書18章31~34節 「理解を越えた救い」
今朝の御言葉は、18章9節から始まっているひとかたまりの部分を締めくくっている御言葉です。9節からのところでは、誰が救われるのか、誰が救いに相応しいのかという問題が扱われてきました。そして先週は、身分の経歴も人格も完璧な金持ちの議員が出てきましたが、「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」と主イエスに言われて、悲しみのうちに立ち去りました。
それを聞いていた人々は言いました。「それでは、だれが救われるのだろうか」。しかしそこで主イエスは言われました。「人間にはできないことも、神にはできる」つまり「救われることのできないすべての人間を、神が救う」と。
今朝のこの御言葉は、その先週の御言葉の裏返しのようなかたちで、先週、永遠の命を求めながら、それに失敗して、悲しんで立ち去ってしまった金持ちの議員の挫折を、取り返してくださるような主イエスの御言葉が語られます。らくだが針の穴を通ることよりも難しいと言われている、人間の救い、永遠の命の獲得。であるならば、それはどうやって可能なのか?しかし、人間にはできないことも、神にはできる。今朝は、その神が、神の御子主イエスが、人間には不可能なことを可能にしてくださるその方法を、らくだを針の穴に通す、その通し方を、教えてくださいます。
その大切な、これ以上ない重要な事柄を伝えるために、主イエスは弟子である12人を呼び寄せて言われました。31節の部分をお読みします。「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子について預言者が書いたことはみな実現する。」
主イエスは、エルサレムに上って行く、と言われました。思えば、今朝の御言葉からずっと前の、9章51節に、「イエスは、天にあげられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた。」という言葉があり、その同じ9章で、主イエスは既に二度、御自分が迫害を受けて殺され、三日目に復活するということを語っておられました。しかし、今朝のこの三度目の死と復活の予告は、これはもう最後の予告です。そしてここから主イエスは、一直線にエルサレムへと歩まれます。よって今朝の御言葉を境に、このルカによる福音書は最後のクライマックスへと進んでいくのです。
そして、このクライマックスで主イエスは何をされるのか?31節にさらっと、「人の子について預言者が書いたことはみな実現する」と書かれています。さらっとした主イエスの言葉に聞こえますが、この一言によって、大変なことが言われています。人の子について預言者が書いたこと、とは、これを聞いている弟子たちの誰もその意味が分からなかったのですが、それは、預言者たちが書き残した救い主メシアについてのこと、ということですので、もっとまとめてひと言で言えば、それは旧約聖書に書かれているすべてのことを指しています。それがみな実現する。主イエスがエルサレムへ上って行くことによって、旧約聖書のすべてが実現するということが、ここで言われていることです。
旧約聖書が救い主メシアについて、救いについて語っていることのすべてとは何か?それは、アダムとエバが失ってしまった永遠の命の取り返しであり、罪を犯してエデンの園から追い出されてしまって、神様と一緒に居られなくなってしまった、失楽園からの復帰です。その命の取り戻しと、エデンの園への復帰を目指す歴史が、創世記3章からずっと書き連ねられてきた旧約聖書全体の話の筋です。そしてその救いは、旧約聖書だけでは完結に至ることなく、その中途で旧約聖書の言葉は、成就を見ない預言の言葉のままで閉じられました。
先週の御言葉で、金持ちの議員は、「何をすれば永遠の命を継ぐことができるでしょうか」と主イエスに尋ねましたが、その永遠の命こそ、それはアダムとエバがエデンの園で失って、そこに人類が置いてきてしまったものだったわけです。そこで、どうやったら、その楽園に戻り、その命を受け継ぐことができるのか?旧約聖書には、その方法が書いてあるけれども、それを実行してエデンの園に戻ることは、どんな人間にもできない。それは、らくだを針の穴に通すよりも難しい、不可能なことである。
ではどうするのか?そこで主イエスは「人間にはできないが神にはできる」と言われた。神がしてくださる。神が、エデンへの道を、命への道をこじ開けてくださる。旧約聖書が語ってきた救いの道を、それを実現できない人間に代わって、神が、成し遂げてくださる。
本当に人間にはどうやっても無理で、金持ちの議員のような、どんなに優れた人でもこじ開けることのできなかった救いへの道を、唯一こじ開けることができる神の御子主イエス。その神の御子であり、救い主である主イエスは、人間に永遠の命を得させるために、エルサレムに上って行かれて、そこで何をなさるのか?それが続く32節から33節です。
「人の子は異邦人に引き渡されて、侮辱され、乱暴な仕打ちを受け、唾をかけられる。彼らは人の子を、鞭打ってから殺す。そして、人の子は三日目に復活する。」
異邦人とは、ユダヤ人ではない人々のことで、当然旧約聖書の、イスラエルを導く神を知らない、救われることのない人々のことです。その異邦人に引き渡されるということは、主イエスが異邦人のものになってしまうということであり、救いなき場所に、エデンの園とは真逆の救いなき暗闇に捕らえられるということです。ここに、創世記で起こった以上の、失楽園が起こる。しかもここで、救いなき闇の中へと追い出されるのは、こともあろうに神の御子主イエスという、本来最も命と光に満ちたところにおられるべき方です。しかしその主イエスが、引き渡されて、さらに、侮辱され、乱暴な仕打ちを受け、唾をかけられる。そしてまたさらに、鞭打たれて、殺される。ただ、闇の中へ追い出されて殺されるというだけのことではない。侮辱され、乱暴と理不尽な仕打ちに遭い、唾をかけられ、精神的な屈辱と、存在そのものの否定を受ける。当時の無知は、鞣した皮に石のとげが付いたものでしたから、その鞭は、骨にまで達して、肉が削がれる。つまりあらゆる痛み苦しみのすべてを嘗め尽くしたうえで、主イエスは殺される。なぜそんなことを主イエスは経験されなければならないのか?罪の責任である死の犠牲を、主イエスが私たちに代わって支払ってくださるからです。
人が神に罪を犯した時、つまりアダムとエバが神様の愛を裏切って、命の木の実を食べてしまった時、「それを食べると必ず死んでしまう」と神様から言われていた彼らは、本当でしたら、すぐに死ぬはずでした。神様の言葉通りなら、そこで、アダムとエバという最初の二人で、人類は滅び、その歴史は終わるはずでした。けれども死ななかった。歴史はそこで終わらなかった。そして救いの可能性が何とか残された。しかしアダムとエバ以降の人間も、アダムとエバらと同じように、神様の愛を裏切り続け、罪を継続して犯し続けてしまった。
その結果、金持ちの議員のように、誰よりも立派に生きているような人間でさえ、永遠の命を得ることができていないような状態に、人類は陥ってしまった。人間は、永遠の命の救いから、遠いところに留まることになってしまった。そこで主イエスは、エルサレムに上って行って、今までの人間の歴史の中で溜まりに溜まった罪の刑罰のすべてを、さらに過去に人類が溜め込んだ罪の罰だけでなく、主イエスの時代からあとの、この私たちも含めた、未来のすべての人間の罪の刑罰と、死の悲惨まで、全部自分の体と心に引き受けて、その苦い死の杯を飲み干してくださって、主イエスは、アダムと、それに続く全人類の身代わりとなって、死んでくださったのです。
そして、この主イエスの犠牲によって、天国への門は開かれました。誰もそこを通れない、針の穴ほどだった天国への道、エデンの園、永遠の命の木の実があるパラダイスへの道は、主イエス・キリストのこのやり方によって、らくだも通れるほど、私たち皆も通れるほどに、大きく広げられたのです。
「それでは、だれが救われるのだろうか。これではだれも救われないではないか。」と人々は言いましたが、主イエスは今朝のこの御言葉によって、「いや、誰でも救われますよ」と答えてくださるのです。人間にはできないことも、神にはできる。人が今までできなかったことも、神にはできる。神はあなたを、針の穴の向こうにある天国に、永遠の命の祝福に、入れることができる。そこで必要なのは、人間であるあなたの力ではなく、あなたを永遠の命に導き入れることのできる神の力である。だから、親を信じてその胸に飛び込んでいく子どものように、神にその身を委ねるならば、あなたはちゃんと救われる。三日後に復活した主イエスによって、死から永遠の命への道が開通したので、それによって人間の死は、もう死ではなくなり、永遠の命への入り口になる。これが、神様の救いの筋の通し方、神様にしかできない、永遠の命への道の通し方です。これを主イエスはエルサレムでなさることによって、旧約聖書をすべて成就し、ユダヤ人も、異邦人も、救いの針の穴に、すべての人を通してくださるのです。
今朝の最後の34節は、正直にその時の弟子たちの様子を語っています。「12人はこれらのことが何も分からなかった。彼らにはこの言葉の意味が隠されていて、イエスの言われたことが理解できなかったのである。」
旧約聖書は、私がエルサレムに行くことですべて実現する。そのためには私が痛めつけられて殺され、そして三日後に復活する。確かに、この主イエスの言葉を聞いても、弟子たちが一体何のことやら分からないのも無理はないと思います。そしてこの私たちも、この弟子たちを指して、しょうがないなあ、鈍いなあとは、決して言えません。私たちも皆、これを最初から知っているなんていう人はどこにもいません。救いとは何か?なぜ主イエス・キリストは十字架に架からなければならなかったのか?そのことと今の私に、どんな関係があるのか?私も自分自身、教会で生まれ教会で育ちながら、それが分かるようになるまで、何年も、この十字架の救いの御言葉を聞き続ける必要がありました。
弟子たちに主イエスは、今朝のところで三度目の、死と復活を予告するこの話をされました。弟子のペトロは、この主イエスの話を三度聞き、実際にこの後エルサレムまで主イエスと共に上って行って、この言葉通りの主イエスの苦しみの場面を、まざまざと横目で見たわけです。しかしその時ペトロは、主イエスを三度、裏切ってしまいました。けれども、主イエスは十字架で殺されたあと、死から復活して、ペトロの前に、三度現れてくださいました。さらに三度目に復活された主イエスがペトロの前に立たれた時、主イエスのことを三度裏切ったペトロに、その分三度にわたって、「あなたはわたしを愛するか」と、主イエスは問いかけてくださり、「はい、主よ、あなたを愛します」と、三度の裏切りを取り返すかのように、三度ペトロ自身の口から言わせてくださいました。そのことによって主イエスは、全く無理解で、主イエスの愛を裏切った、挫折したペトロを、しかし、この今朝の言葉が語っているイエス・キリストによる救いのメッセージを理解し、この救いを受け取り、さらにそれを伝えていく使徒として、力強く復活させてくださったのです。
聖書の中で、「三度も」と言われる時、それは「何度も」という意味を持ちます。多くの人がこの教会の横を素通りしていく中、幸い目に見える迫害はここでは起こっていませんが、しかし無関心という冷や水を周りから浴びせられてしまっている、このキリスト教会の中に入って来て、この救いを理解し、受け取って、神様から永遠の命を受けて生きていくという線は、それはとてもとても通りにくい細い線で、まさに針の穴を通すようなことだと思われるかもしれません。けれども、遠くからは針の穴を通すように見えるこの救いは、イエス・キリストの架かってくださった十字架に近づいていけば近づいていくほど、それは、誰でも救われる。これで救われない人などいないという、大きく開いた救いであることが分かる。たとえ今、全くの無理解でも、そこに反発しか覚えない身であっても、すぐに意味が分らずこれから何年かかろうとも、たとえ何度神様を裏切ろうとも、たとえ何度挫折して、神様の前で膝をついて倒れ伏そうとも、人の力を越えた神の力が、主イエス・キリストの大きな愛が、針の穴を、あなたを、そしてどんな人をもしっかりとそこに招く、大きな天国への吸い込み口に変えてくださる。主イエス・キリストが、この方にしかできない力技で、私たち一人一人が入ることのできる救いを開いて、待っていて、くださっています。