2021年1月31日 創世記18章16~33節 「町のために祈る教会」
今日は、本来なら、緊急事態宣言のために来月に延期となった会員総会を行う日でしたので、会員総会はありませんが、説教の方だけは当初の予定に倣って、今年の教会標語に基づいた御言葉を分かち合うことで、私たちの、今年度の教会の方向性を定めたいと思います。
祝福の源になるという、教会の根本的な価値観であり大目標は、2019年から変えずに据え置いています。祝福の源になる。その上で今年は、町のために祈る教会という標語を掲げています。そして今朝の、創世記18章では、あなたは祝福の源となる、との約束を神様から受けたアブラハムが、町のために祈ることを通して、文字通の祝福の源になっています。
ある聖書解説書が、この部分に「商談」というタイトルを付けていましたけれども、確かにこれは人間アブラハムと神様とのテンポの良い値切り問答のように見えます。しかしこの御言葉の背後には、本当に真剣な、命を懸けた、また大勢の人々の命がかかった、手に汗握る駆け引きがありました。
しかし、まずこの御言葉に向き合う時に驚かされるのは、神様ともあろうお方が、一介の人間であるアブラハムと、駆け引きの相手として立ってくださるということ、それだけ、目線を同じくして対話してくださっているという事実です。
一体神様と人間とは、このような近さで語り合えるものなのでしょうか?人間に神様と話ができてしまう。商談ができてしまう。それを許してくださる神様の恵みをまず覚えたいと思います。そして今朝の御言葉が物語っていることは、私たちもこのアブラハムと同じく、神様の前に立てる。神様と話ができる。神様は私たちの言葉を、しっかりと聞いてくださるということです。
神様は最初、アブラハムに大事な秘密を打ち明けてくださいました。暑い昼下がりにアブラハムのもとを突然訪れた三人の旅人を、アブラハムは篤くもてなし、彼らをそのままには帰らせず、自ら彼らを見送るために一緒に歩いていました。このアブラハムの誠実さと、客をもてなす親切心が、この三人の旅人の心にとまりました。そして旅人はアブラハムと共に歩きながら、独り言を語ります。17~19節です。「18:17 主は言われた。「わたしが行おうとしていることをアブラハムに隠す必要があろうか。18:18 アブラハムは大きな強い国民になり、世界のすべての国民は彼によって祝福に入る。18:19 わたしがアブラハムを選んだのは、彼が息子たちとその子孫に、主の道を守り、主に従って正義を行うよう命じて、主がアブラハムに約束したことを成就するためである。」
17節のはじめに、「主は言われた。」と記されています。「主」というふうに記されていますことから、三人の旅人の中のひとりは、受肉される前のキリストであったのだと、教会は古代から、この旅人を、旧約聖書に姿を現されたイエス・キリストだと見なしてこの部分を読んできました。そしてその主なる神が言われました。「これから私が行おうとしていること、あの罪の堕落と快楽の町ソドムとゴモラをこれから裁くということを、アブラハムに話しておこうか、どうしようか。アブラハムは私が選んで特別な関係に入れた人物であるし、このアブラハムから救いの民は生まれて、祝福されて、大きくなるのだから、彼にだけは、これを話しておこうか。ほかの者には話すべくも無いがこのアブラハムにだけは。」これは主なる神の独り言です。そして主は、このアブラハムにだけは、これから起こるソドムとゴモラの裁きが、単なる自然現象などではなく、神の意志による、正義の裁きであることを伝えておこうと考えられました。神様はこのように、祝福を与え、祝福の源になると約束してくださった者に対して、まるで友人のように近づいて来て下さり、一緒に歩いてくださり、このように親しく語りかけてくださるのです。
そして続けて主は、ソドムとゴモラについて語られます。20~21節です。「18:20 主は言われた。「ソドムとゴモラの罪は非常に重い、と訴える叫びが実に大きい。18:21 わたしは降って行き、彼らの行跡が、果たして、わたしに届いた叫びのとおりかどうか見て確かめよう。」
聖書の中でも、特に悪名高い二つの町の罪を神様は案じておられますけれども、しかしここで主なる神は、とても慎重に裁きを考えておられることを明らかにされます。主はご自分の目で見て確かめて、彼らの罪が悪い評判通りなのかを調べようとされました。どんなに彼らの悪が確実でも、神様はいたずらに裁きを振るわれ、罰を下されるお方では決してありません。神様は、罪が極みに達するほどであったこのソドムとゴモラに対してさえも、この慎重な姿勢で取り組まれます。
22節の始めにある「その人たち」とは、アブラハムが会話していた主以外の、二人の御使いです。二人の旅人は、既にソドムの状況を確かめるために、町の方に向かって出発して行ってしまいました。そして恐らくこのソドムを見下ろせるほどの高い峠の上には、アブラハムと旅人のひとりであられた主が残りました。
そしてこの時、神のみが知り得る裁きの予告を耳にしたアブラハムは、内心ではギョッとして、血の気の引くような思いであったに違いありません。人間には聞くことの許されない、神様の独り言を聞いたアブラハム。しかもそれはソドムとゴモラという大都市への裁きの計画でした。
しかしソドムの町には、アブラハムの甥であったロトの一家が居を構えていましたので、そうなると、甥のロトとその家族の巻き添えも不可避です。そしてここから、アブラハムの値切り交渉が始まります。アブラハムは何とかして彼らが助かる方法が無いかと考えました。しかしそのためには、神様がその心を変えて、裁きをとどめてくださらなければ不可能です。
それは、一つの大きな町を踏みつぶそうとしている巨大なブルドーザーの前に、身を挺して割って入るようなものです。これは大袈裟ではなく、アブラハムの主なる神への信仰と大胆な信頼が生み出した奇跡です。主なる神様が、悪い者を罰しようとしておられる。神様はその裁きをなす力と権威をお持ちですから、それを予め知りえたとしても、普通ならどうしてもそれは不可抗力で、変更不可能です。
けれどもアブラハムは巨大なブルドーザーの前に立つのです。神の前に物怖じしない人間の姿。それだけ神様のことを固く信頼し、神様に期待してそこに立っている人間の姿がここにあります。22~23節です。「その人たちは、更にソドムの方へ向かったが、アブラハムはなお、主の御前にいた。アブラハムは進み出て言った。『まことにあなたは、正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。』」
彼は、神様の正しさをついて、彼がこれまで何度も、十分に体験してきて、よく知っていた神様の憐れみ深さを突いて、そこに訴えました。アブラハム必死の、大胆な直訴です。
続く24~25節です。「あの町に正しい者が50人いるとしても、それでも滅ぼし、その50人の正しい者のために、町をお赦しにはならないのですか。正しい者を悪い者と一緒に殺し、正しい者を悪い者と同じ目に遭わせるようなことを、あなたがなさるはずはございません。全くありえないことです。全世界を裁くお方は、正義を行われるべきではありませんか。」
彼は普通なら許されないことと分かりながらも、神様の袖を離さずに食らいついて行く。そしてそこまでして、自分ではなく、他人の助けのために身を注ぐのです。感動的な場面です。これが執り成すということです。執り成しとは、対立する間に入って、和解を生み出すことです。そしてこのアブラハムの執り成しは、大きな実を結びます。26節。「主は言われた。『もしソドムの町に正しい者が50人いるならば、その者たちのために、町全部を赦そう。」この時、歴史が動きました。
このことは、神様の御計画が、人間の思いによって変更させられたということを意味するものではありません。神様は、あらかじめお決めになっている、聖定されている計画を、寸分たがわず実行されます。けれども、その神様の計画の実行の仕方は、ただ強制的に、全く運命論的に、ビクともしないやり方で、機械的に事が進められるというやり方によるのではありません。神様は、このような人間との心の通い合いを通して、私たちの祈りや訴えを心の真ん中で受け取ってくださることを通して、そのうえで事を運ばれるのです。私たちの神様とは、そのようなお方です。
アブラハムの執り成しは、神様の慈悲深いその心の中心点を突きました。そしてアブラハムはさらに値切りだすのです。私たちでは、50人の赦しの所までがせいぜいだと思います。しかし救い、赦し、神様の約束、ということに対しての、アブラハムの信仰は、全く人並外れています。
彼は神様に直訴をしながら、さらに超人的な執り成しを進めていきます。27~29節です。「アブラハムは答えた。『塵あくたいにすぎないわたしですが、あえて、わが主に申し上げます。もしかすると、50人の正しい者に5人足りないかもしれません。それでもあなたは、5人足りないために、町のすべてを滅ぼされますか。』主は言われた。『もし、45人いれば滅ぼさない。』アブラハムは重ねて言った。『もしかすると、40人しかいないかもしれません。』主は言われた。『その40人のためにわたしはそれをしない。』」
値切る方も値切る方ですが、負ける方も負ける方です。50%引きどころではない。そして感動的なのは、この駆け引きが、この商談が、このせめぎ合いが、お互い自身のためではなく、他の人々の救いのため、他の人々への執り成しのためであるということが、この御言葉を、心地良く痛快な、そして美しい、聖なる駆け引きに押し上げています。アブラハムは聖なる図々しさによってさらに値切っていきます。30~33節。「アブラハムは言った。『主よ、どうかお怒りにならずに、もう少し言わせてください。もしかすると、そこには30人しかいないかもしれません。』主は言われた。『もし30人いるならわたしはそれをしない。』アブラハムは言った。『あえて、わが主に申し上げます。もしかすると、20人しかいないかもしれません。』主は言われた。『その20人のためにわたしは滅ぼさない。』アブラハムは言った。『主よ、どうかお怒りにならずに、もう一度だけ言わせてください。もしかすると、10人しかいないかもしれません』主は言われた。『その10人のためにわたしは滅ぼさない。』主はアブラハムと語り終えると、去って行かれた。アブラハムも自分の住まいに帰った。」
アブラハムが最後に10人まで値切ったのは、彼の甥のロトの家族が10人いたからです。そしてこの6回にも及ぶ、聖なる値切り交渉によって、執り成しが聞かれ、10人という人数まで条件が低くされました。
ここで印象的なのは、アブラハムの執り成しへのすさまじい熱意と、しかし、それ以上に、それにすべてアブラハムの言い値まで負けてくださる、神様の赦すということに対する折れ易さです。主なる神は、私たちの執り成しを聞いてくださるお方です。私たちが他人のために熱心に執り成し祈り、神様に願うならば、神様はそれを待ってましたとばかりに、その通りに受け入れてくださるお方なのです。そしてこの神様は、人を赦すということに関して、本当に優しい赦しの神であり、その部分では喜んで折れてくださる神様です。
もし、ここでさらにアブラハムが値切り詰めていくならば、主は、たとえたった一人の正しい者のためにでも、裁かない、決して滅ぼさないと、神様は約束してくださったに違いないと思います。
新約聖書のローマの信徒への手紙の3章には、「正しい者はいない。一人もいない。」と書かれています。そしてただこの言葉そのままならば、たとえ残り一人まで値切れたとしても、この世界には一人も正しい人がいないゆえに、この世界は滅びを免れないことになってしまいますが、しかしながら、この私たちにはたった一人、正しい、一人の、神の御子イエス・キリストが与えられました。そして実際に神様は、そのイエス・キリストという、たった一人の正しい方が、他のすべての人類の罪を担って十字架で死なれた、というその救いによって、私たちすべてを、滅ぼさずに救ってくださる。十字架の赦しを受けとる者を全てを、救ってくださるのです。
そして、この御言葉から教えられるもう一つことは、神様の前に忠実に生きる人間の価値ということです。使徒言行録の27章にも、使徒パウロを含めて276人が乗った船が、パウロというひとりの人物が同乗していたために、船が割れるほどの暴風から守られたという逸話が記録されています。
アブラハムは今朝の御言葉で、自分のことを「塵あくたにすぎないわたし」と呼んでいますが、その塵のような者が祈る、蚊の鳴くような小さな祈りが、神様の耳に届き、その結果、歴史の歯車を動かし、歴史を変える程の威力を発揮するのです。
一人のクリスチャンがいる。主に従う者たちが、主を礼拝する礼拝者たちが、今ここにいるということは、決して小さなことではありません。この神戸の町に私たちがいるということ、約70人の板宿教会のメンバーがここに居るということは、これはこの町にとっての救いです。この神戸で新しい一年を歩み出す私たちの教会に、神様の眼差しは、今しっかりと注がれています。家族の中にクリスチャンが自分一人であったとしても、またたとえ、町の中にたとえたった一人のクリスチャンしかいなくとも、その存在によって、その家庭が、その町が祝福を受けて、裁かれずに、波風によっても破壊されずに守られるということが起こる。吹けば飛ぶ塵のような小さな私たちの存在によっても、その私たちがいる家庭や町は、神様の目から見て、滅ぼすことなどとてもできない、価値ある祝福された存在になるのです。私たちが神様に従って、神様を礼拝しながら主の民としてこの地上に生きる時。その存在自体を、神様はとりなしの器として用いて下さる。私たちはある意味でこの町の代表者として立ち、この町のために祈ることで、この町に神様の愛を呼び込み、この町を救う、大きな力を持つ執り成し手になるのです。
「主は言われた。『もしソドムの町に正しい者が50人いるならば、その者たちのために、町全部を赦そう。」
100年前、ここで礼拝が始められた時、果たして100年後の今が想像できたでしょうか?板宿教会が既に100年間、この町の救いの源として用いられてきたことに感謝し、それを叶えてくださった神様を褒め称えます。そして同時に、これから先の100年も、この教会がそのように用いられることを願い祈ります。私たちによって、神戸という、既に神という名前のついたこの町が、本当に神の宿る、神の町になる。そのために教会が用いられ、私たちの祈りが用いられますように。