2021年2月14日 ルカによる福音書183543節 「神様のフォーカス」

 今朝の御言葉を読んだ時、旅行でインドに行った時のことを思い出しました。横浜にサリーのお店を出店しているお金持ちのインド人の知り合いを伝手にして、19歳の時にインドに旅行に行ったことがあります。ニューデリーの町の真ん中にある大きなお宅に泊めさせていただいたのですが、ある日の午後、ランチに連れて行ってあげるよ、一緒に行こうと言われて、車に乗せられて向かった先は、レストランというよりも、それはお城のように大きなホテルでした。

 その入り口のロビーには、顔を見ただけで誰だと分かるような各国の首脳や、デイビッド・ベッカムなどの有名人が来店した時のサイン入りの写真が飾ってあり、高い塀に囲まれたその中にはプールがあり、欧米人たちがプールサイドでパラソル付きのベンチに座って読書をしていました。

 そのホテルに入る際の、入り口の門のところで、私は、ひとつの光景を咄嗟に目にしました。ホテルの入り口のわきに、何か麻袋のような、埃をかぶったごみのような物が置いてあるなと思ったのですが、それは、良く見ると砂にまみれた人だったのです。生きているのかどうか、分からないような、ずっとそこに置かれたままになっているような人。その人の前には、物乞いのための小さな皿が置いてあったと思います。ホテルに入る前の、その塀の外での一瞬の出来事でしたけれども、その場面が、今でも忘れられません。私はそこで強いショックを受けて、そのあとレストランでカレーを食べて、美味しかったはずなのですが、全く味を感じられませんでした。

 

 今朝のこの御言葉に出て来るエリコという町は、岩山の中腹に立つ、昔は二重の城壁を持っていたと考えられている、難攻不落の大きな要塞都市です。そこに、十字架を目指して、エルサレムをめがけて歩んでおられた主イエスが入られました。年に一度の過ぎ越しの祭りの時期でしたから、エルサレム周辺には各地から大勢の人が集まっていて、エルサレムの隣り町であるエリコの町も賑わっていたと思いますし、さらにこの時の主イエスは、既にかなりの有名人でしたので、常にそれを取り巻く多くの群衆たちがいたはずです。その中でのエリコ入城ですので、それはその町にとって、新聞に載るような大きなニュースであり、主イエスはその町の大きな広場で話をしたり、町の礼拝堂に入って説教をしたりと、そういうスケジュールが、自然と主イエスの旅程の中に組み込まれていったはずです。

しかし聖書は、主イエスがそこでどんな有名人にあったとか、エリコの町の有名な場所を訪れたのだとか、そういう新聞に載るようなことを記しません。

このルカによる福音書にこそ、このあとの19章で、ザアカイの話があり、そのあとにムナのたとえというたとえ話がエリコの町でのこととして語られてはいますが、そしてそれも、何かのニュースになるような公式行事という話ではないのですが、他のマタイとマルコの福音書には、主イエスがエルサレムに行かれる前に立ち寄られたエリコの町でのことについて、ただ一つのことを除いて、何も記されていない。そして、マタイ、マルコ、ルカの三つの福音書が、このエリコの町でのこととして、共通して書いているただ一つの出来事こそが、今朝の御言葉である、盲人の癒しの出来事なのです。

 マタイとマルコは、主イエスがエリコの町を出る時のこととして、しかしこのルカによる福音書は、主イエスがエリコの町に入られる時のこととして、この物乞いの盲人への癒しの出来事を書き残しています。

 今朝の説教題を「神様のフォーカス」と題しましたけれども、神様のカメラはここで、堂々たるエリコの町や、そこでの主イエスの活躍を映さないのです。そして、今朝の最初の35節に、「イエスがエリコの町に近づかれたとき、ある盲人が道端に座って物乞いをしていた。」とあるように、神様のカメラは、そこに焦点を当てて、ほとんどそこだけをクローズアップしていくのです。

 福音書がもし主イエスの伝記なり、旅行記であったとしたら、ここをだけを切り取ってフォーカスするというのは、どう考えても、見どころがバランスを欠いていると言わざるを得ない、ものの見方なのですけれども、しかし逆にこういう風に記しながら、聖書は、神様の目がどこを見ているのか、ということをしっかり示しています。そしてこの福音書は、単なる主イエスの旅行記、伝記ではなく、いかに人が神に出会って救われるのかを記す、すべての人が主人公の、すべての人にとっての救いの書物です。                                                                                                                                                                                                                 

 

 エリコの町の入り口の、道端に座っている盲人の物乞い。まさに私がインドで見たような人ではなかったかと思います。彼が、36節。18:36 群衆が通って行くのを耳にして、「これは、いったい何事ですか」と尋ねた。18:37 「ナザレのイエスのお通りだ」と知らせると、18:38 彼は、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫んだ。18:39 先に行く人々が叱りつけて黙らせようとしたが、ますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。」

 物乞いですから、自分で何も持っていないわけです。食べ物もなく、お金もなく、家もなく、無一文なのです。与えてもらわなければ、何も得ることができない、丸腰の人、空っぽの人。さらに彼は盲目で、太陽の光も、美しい景色や、色や、目を通して飛び込んでくる状況、情報のすべても、得ることができない。光なき、真っ暗で大きな闇の、底知れない不安の中に飲み込まれたまま、そこに一人座っている、孤独な人。

 ああ可哀そうに、というだけの話ではもちろんありません。私たちの心も、時に、いともたやすく、光と色を失ってしまう。コロナウィルス禍の中で、いつも自分が感染していないか、感染させていないかと、ドキドキし、なんだかいつも恐る恐る過ごしている私たちです。しかしコロナは数ある不安要素の一つに過ぎず、他の病の心配もありますし、地震や災害にいつ襲われるとも限りません。この物乞いの盲人は、そういう私たちの中にもある、破れと、孤独と、悲惨と闇を、表わしています。

 私を憐れんでください。という彼が叫んだこの言葉は、慈悲を与えてくださいという言葉であると共に、裁判官に対して罰則の減刑、赦免を求める言葉でもあり、この苦しみから救ってください、神よ恵みを与えてくださいという意味の言葉でもあります。

 

 彼は、人々から叱りつけられ、黙らせられるような仕打ちを受けながらも、その制止を振り切り、ところかまわないかたちで叫び続けました。汚い盲目の乞食が埃を立てて暴れまわるとしたら、人々は皆顔をしかめて、何だあいつは、となると思われますが、それでも彼は、かえってますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。それは一体、どんな声だったのでしょうか。

 

 そして聖書は、御言葉を記すその大事な誌面を、この騒々しく騒ぐ物乞いの盲人の、その言葉を記録するために、割くのです。普通なら映さない、普通なら素通りする、映すフィルムがもったいない、そんな価値はこの人にはないと皆が思うこの人を、しかし、神様のカメラは、しっかりフォーカスして離さない。

 4041節です。18:40 イエスは立ち止まって、盲人をそばに連れて来るように命じられた。彼が近づくと、イエスはお尋ねになった。18:41 「何をしてほしいのか。」盲人は、「主よ、目が見えるようになりたいのです」と言った。

 主イエスは立ち止まり、その歩みを止めて、彼に「何をしてほしいのか。」と聞いてくださいました。これは単純に、何をしたいのかと尋ねる言葉ではなく、何があなたにとっての喜びか?と問う言葉です。そして、盲人は、「主よ、目が見えるようになりたいのです。」と答えました。そしてこの答えの中にある、「目が見えるようになりたい」という言葉も、lookとか、seeとかいう、ただ、見る、見えるという言葉が使われているのではなくて、ここには、ギリシャ語で、アナブレポーという、生き返る。再び命を取り戻す、という意味の特別な言葉が使われています。

 何があなたの喜びかと聞かれて、彼は「主よ、生き返りたいのです。」と言ったのです。つまり、彼は死んでいたのです。「主よ、憐れんでください。助けてください。救ってください。恵みを与えてください。生き返りたい!」

 

 42節。18:42 そこで、イエスは言われた。「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った。」」ここも本当に、見えるようになれ、というどころの話ではないのです。主イエスは、盲人の叫んだ、アナブレポーという言葉をそのまま使って、それをアナブレクソンという命令形に変えて、「生き返れ!」と言ってくださったのです。

 

 エリコの町の入り口に、ぼろきれのように置かれていた、物乞いのこの盲人が、主イエスに、生き返れ!と言われて、生き返った。これが、主イエスがエリコの町で起こしてくださった、最初にして、また最大の出来事だったのです。

 43節。18:43 盲人はたちまち見えるようになり、神をほめたたえながら、イエスに従った。これを見た民衆は、こぞって神を賛美した。」

 盲人は見えるようになった。盲人はここで何を見たのか?ただ景色が見えたということに留まらず、彼は神を見た。そして、主イエスを見た。よってその彼の足は、神をほめたたえながら、自然に主イエスに従っていくのです。盲人でなくなった彼は、神に従って生きる者へと、よみがえった。彼は、もう物乞いではなくなりました。無一文で何も無いのではなく、彼は憐れみを受け、助けを受け、恵みを受け、彼の目は開かれ、その目には、神様という光が差すようになり、世界は暗闇から、喜びと色彩に溢れた世界に変わり、彼は賛美することまでできるようになった。賛美とは、喜びの発露であり、喜びと恵みが自分の中に納まり切らずに、外に向かって、恵みをくださった神様に向かって、感謝が溢れ出ることですけれども、もう彼は空っぽではなく、有り余って溢れ出るほどに、豊かに満たされた人になった。もう彼は物乞いでないどころか、さらに、そういう彼のことを見た民衆をも、こぞって、根こそぎ神様への賛美に導くほどの、豊かに施し、豊かに与える人に、人びとに慰めを与える人に、彼は生まれ変わった。彼は生き帰った。生き生きとした命を取り戻した。神様を知るということは、こういうことです。

 

 主イエスは、こういう彼に、「あなたの信仰があなたを救った。」と語ってくださいました。本当に嬉しい、自信のつく言葉です。主イエスはこういう風に、あなたの手柄だ、という風に言ってくださっていますけれども、実際に盲人だった彼を救ったのは、まるっきり主イエス・キリストです。

 けれども主イエスは、無一文の彼に向かって、あなたは豊かに持っている。あなたはあなたの立派な信仰を持っている。そのあなたの信仰が、あなたを救ったのだと、嬉しくなるような言葉をかけてくださっています。

 信仰義認とか、そういうことを彼が知っていたわけではありません。あなたの信仰が、と言っても、彼にはもちろん三位一体も何も分かりません。彼はただ、力いっぱい、「ダビデの子イエスよ、私を憐れんでください。主よ、生き返らせてください。」と叫んだだけです。けれどもその言葉を、主イエスは、立派な信仰の言葉として、それによって救われるに足る、神への素晴らしい、深く力強い信仰だと言って、褒めてくださいました。

 

 「ダビデの子イエスよ」。実はこれは、新約聖書の一番初めの、新約聖書全体の表題となっている、マタイによる福音書11節の、「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」という御言葉と軌を一にする言葉です。イエスキリストこそ、その子孫であり、その力と権威において、ダビデ王の更に上を行く継承者だ、というこの真理の信仰をルカによる福音書で、最初に言い表しているのは、実はこの盲人の彼であり、ルカによる福音書でこれを正しく言い表すのは、主イエス以外には彼のみしかいない訳なのですが、図らずも、彼がこの真理の信仰告白に至ることができたということも、神様が彼に与えてくださった大きな恵みの一つです。

 

 町のはずれに物が置かれるようにして座していた、一介の、物乞い盲人が、しかし神様に助けを求めて、生き帰るようにして光を得て、主イエスに神を賛美し、従い行く者となった。神様のフォーカスは、大きなエリコの町の、しかしその小さな一人の、小さな心の動きと、人ごみの中でかき消されてしまうような小さな祈りと、その小さな人が経験した、人生全体が生き返るような神様との出会いに向けられ、神様はその一挙手一投足を、ちゃんと見ておられた。

 それはつまり、この町に生きる、ほんの、たった一人の小さなあなたが、例えば主イエス・キリストに、「ダビデ王の子、イエスよ」と、一言呼びかける。神様、助けて、と一言祈る。主イエス・キリストをすれ違いざまに呼び止める。この聖書が語る、主イエス・キリストの言葉に、あなたも耳を傾ける。そして、一筋の光でも、それが暗かった心に差し込むならば、そのあなたのことこそが、神様にとって、今日この神戸の街で、今日この関西一体で起こった、大の大ニュースなのです。

 今、間違いなく、神様のフォーカスは、神様の光は、この主イエスの御言葉を受けた、あなたに向けられています。神様は今朝、あなたを素通りしない。神様の目は今この時、あなたを見つめています。

 

祈り

ダビデの子イエスよ、私を憐れんでください。主よ、目が見えるようになりたいのです。主よ、もう一度、生き返らせてください。

生き返れ!新しくなれ!あなたの信仰があなたを救ったと、私たち、一人一人に対しても、あなたがこの心にしっかりフォーカスして、今語ってくださり、励ましてください。

今から私たちが、神をほめたたえ、主イエスに従って歩むことができるように、ずっと点から見ていてください。常に支えてくださり、この空っぽの者の歩みを、いつも後押ししてください。主の御名によって、祈ります。