2021314日 ルカによる福音書191127節 「どこを見て生きるのか」

 先週まで神学生たちの卒業説教が続きましたけれども神学校で教えさせていただくという良い仕事を与えられていて、そのことにいつもとても感謝しています。今の神学校は4年間かけて卒業する形になっていますが、その4年間の教育を通して、何とかこのことを伝えて、神学生には是非ともこれが分かって卒業していって欲しいと思っていることがあります。それは、入学時からの神学生たちそれぞれの、自己実現の質が変わるということです。私もそうでしたけれども、神学校の入学試験の面接時には、皆こうなりたい。こういう牧師になりたいと言うわけです。しかし、神学校入学者だとは言えども、入学当時の神学生たちは、自分はこうなりたい、自分はこれをしたい、逆に言えばあれはしたくない、というこだわりがあって、そういうものを含んだ自己実現の願望を持っています。しかし入学後の4年間は、そのこだわりを含んだ自己実現が砕かれる時間になります。そして卒業する時には、神様が自分を導こうとしておられるところの、自分になりたい。自分のこだわりから解放されて、神様の思い通りの自分になるにはどう生きればいいのかという、そっちの方向での自己実現を目指す歩みに導かれて欲しい。この点を何とか伝えたいと思いながら、私は神学生たちを教えています。

 

 今朝の御言葉の最初の、1911節に、ユダヤ人たちの、そのこだわりを含んだ自己実現の願望が見えています。「人々が神の国はすぐにも現れるものと思っていたからである」とあります。ここで言われている神の国とは、ユダヤ人たちの念願の成就でした。具体的には、このエルサレムを中心としたユダヤ人の国は、紀元前から、もう既にこの時には500年以上も他の国々に支配され、属国、植民地とされていました。この主イエスの時代には、ローマ帝国がこのユダヤの支配権を握っていました。そんな中で、人々がすぐに現れることを願っていた神の国とは、ユダヤ人の中から神の力を帯びた救い主が登場して、列強諸国をなぎ倒して、ユダヤの国が世界の中心となるような、そういう世界がやってくる。そういういわば、革命的な、国境線がそれによって動くような政治的な神の国が、この当時の主イエスを囲んでいた人々の考える神の国の姿であり、それが彼らの考えていた自己実現であり、ゴールでした。

 主イエスはエリコの町に入り、エルサレムまであと27キロ、高低差約千メートルという、エルサレムに居座る権力を睨み、そこに迫る位置まで登ってこられました。そしてここで主イエスを担ぎ上げようとする人々の高揚感と自己実現とが、エルサレムに登って行く主イエスの後ろ姿に重ねられたのです。

 

ちょうどその時、主イエスは、ひとつのたとえ話を語られました。それが、表題にある通り、ムナのたとえ、というたとえ話ですが、このたとえ話は、もうお気づきの方も多いと思いますが、マタイによる福音書にでてくるタラントンのたとえに似ています。板宿教会で毎年子供向けにやっているタラントンいちばの由来になっているのが有名なタラントンのたとえですが、ルカによる福音書はそのたとえ話が出てきませんので、その代わりと言ってはなんですけれども、それと似たような、今朝のムナのたとえが主イエスの語られたたとえ話として出てきます。

両者は似ていますけれども、しかし違うところもあります。似ているところで言えば、両者とも、主人が僕にお金を預けるという話の大筋です。両方共に、お金を預けられた三人の僕が出てきて、最初の二人は成功して褒められる。しかし最後の一人は主人からお叱りを受けて、預けられたお金を取り上げられてしまうという話です。

そういう大筋は同じなのですけれども、細かいところが違います。まず、タラントンとムナ、という貨幣の単位の違いですが、タラントンとは、ざっと20年分の収入、円に換算したら6000万円は下らない高額のお金です。それに比べてムナは100万円ぐらいの価値のお金です。しかし、さらに大きな違いが、そのお金の主人から僕への預け方です。タラントンは、5タラントン、2タラントン、1タラントンという風に、三者三様の額でしたが、ムナのたとえの方では、全員一律1ムナずつが預けられています。タラントンの方は、この貨幣単位が、タレント、才能という言葉の語源になったと言われていますので、それぞれ三者三様ということは、才能や能力には皆違いがあり同じではない、という多様性がリアリティーをもって示されているように読み取れます。

しかし反対に、全員一律1ムナとは、どういう意味なのか?一体僕たちは、1ムナという貨幣によって主人から何を預けられているのか?というその意味を捉えることが、今朝はまず大事になるだろうと思います。みんなに、平等に、一律にひとつだけ、神様から与えられているもの。それは命です。そして本当にここでは、その命の使い方が問題とされているのだと思います。

最初は1ムナで安いかもしれません。弱くはかない、誰でも赤ん坊からスタートするごくごく小さなこの命。しかしその命は、生き方によって、その用いようによって、何百倍にもなる。最初の僕は1ムナを10ムナまで増やして、そこで終わったのではなかった。主人は彼に、17節でこう言いました。「良い僕だ。よくやった。お前はごく小さなことに忠実だったから、10の町を支配権を授けよう。」100万円が倍とか10倍とかいう話ではない。あなたは10の町を所有する権威者となれ!という意味の言葉が、ここに語られている言葉です。

 

これは単純に、ビジネスやお金儲けの話ではありません。そういう体裁の話を通して、生き方の問題が語れている。その証拠が垣間見える13節の言葉を見てみたいのですが、13節には、主人の言葉があります。13節「そこで彼は、十人の僕を読んで十ムナの金を渡し、『わたしが帰って来るまで、これで商売をしなさい。』」と言いました。この商売をしなさいという、命令の言葉ですけれども、ここには実は、この聖書で一度しか使われていない特別な言葉が語られています。それはプラグマテウオマイというギリシャ語の言葉ですが、これは、商売するという意味もありますが、それは第二の意味で、第一には、一生懸命努力して、骨を折れ!労を惜しまず奮闘せよ!という意味を持っています。その命令形の言葉が、一人一人に1ムナが渡された時に、主人から語られるのです。

そして、さらにその主人が15節で帰って来た時を見るとこうあります。15節「さて、彼は王の位を受けて帰って来ると、金を渡しておいた僕を呼んでこさせ、どれだけ利益を上げたかを知ろうとした。」この15節の、利益を上げた、という言葉も、これも聖書に一度しか出てこない、先程のプラグマテウオマイに、ディアという、何々を通してという言葉がくっついたディア・プラグマテウオマイという言葉が使われています。これは、一生懸命努力して、労を惜しまず骨を折った結果、何かを成し遂げた。困難な道のりを歩き抜いて踏破した、という言葉です。

 主人は帰って来て、ディア・プラグマテウオマイしたか?と、あなたは、人生で何かを成し遂げたか?と、命を授けておいた一人一人に尋ねられるのです。

 最初の二人はお褒めに与りましたけれども、三人目はそうではありませんでした。彼は20節からの言葉で、こう語りました。「御主人様、これがあなたの一ムナです。布に包んでしまっておきました。あなたは預けないものも取り立て、蒔かないものも刈り取られる厳しい方なので、恐ろしかったのです。」これに対しては、主人は失望を通り越して強いツッコミを入れています。「悪い僕だ。その言葉のゆえにお前を裁こう。わたしが預けなかったものも取り立て、蒔かなかったものも刈り取る厳しい人間だと知っていたのか。ではなぜ、わたしの金を銀行に預けなかったのか。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きでそれを受け取れたのに。」

 その言葉のゆえにお前を裁こう。という言葉は、あなたが使ったその言葉を、そのままあなたにお返ししようという意味の言葉です。私が預けなかったものも取り立て、蒔かなかったものも刈り取る厳しい人間だと知っていたのか。何だと?そんなわけないだろう。あなたは私について何も分からず誤解をして、厳しい人間だと、私の姿を、本来とは真逆に理解し、決めつけている。しかし、本当に取り立ての厳しい主人だと信じ込んで、私のことを本気で恐れているなら、1ムナを寝かせておかずに、銀行で利息でも取ったらまだよかったのに、私に対するひどい誤解をする上に、その誤解の仕方も不徹底で、話にならない。そういう言葉です。

 

 三人目の僕は、主人に対する根深い誤解を抱いていました。それは、14節に突然出てきて、主人に対するネガティブキャンペーンを展開する国民も同じです。そしてその、王の誕生を喜ばない国民の姿に、自分たちの願望成就のために主イエスを担ぎ上げようとしていたユダヤ人たちの思惑が重なっています。

 自らもユダヤ人であられた主イエス・キリストがエルサレムに向かっておられるのは、海外列強の鼻を折って、ユダヤ人の国を樹立するという、狭い民族的自己実現のためではありませんでした。むしろ主イエスは、十字架に架かって、自己を放棄し、神様に命を捧げ委ねるために。侮辱を受けて殺されるために。しかしそれによって神様の救いの計画に用いられて、その十字架という代理の罰によって、人々を罰と死から救うために、主イエスは十字架への道を、エルサレムに向かって登っておられたのです。そしてそれは、少しも人に称賛されたり、喝さいを得たり、人の人気を取れたりするような道ではありませんでした。現に主イエスは、来週読むことになるこの次の御言葉で、熱烈な歓迎の中でエルサレムに入場されながら、涙を流されます。それは、十字架に架かられる一週間後に、この歓声がののしりの叫びに変わることを、主イエスは知っておられたからです。

 

 生かされる、生かされている、とよく言われますけれども、本当です。それ以外にこの命は説明できません。皆が神様から命の1ムナをいただいている。この命は神様からの貰い物です。そしてこのたとえ話の主人のように、主イエスは十字架に架かって天に昇られ、再びこの地に帰って来られる。そしてその時、私たちの1ムナが、どう使われたかを調べられる。

 本当に、悪い僕だと言われてしまった三番目の僕のことは、これは他人ごとではありません。実はこのたとえの読者は、最初はみなそこに立たされるのです。最初から神様を知って、信頼している人間などいない。三番目の僕にとっては、1ムナ渡されて、これを増やしておけと急に言われても、冗談じゃない。1ムナ預けられても、もし失敗したらと考えると、恐ろしいし、こんなお金、重荷でしかない。そもそも自分は、生まれたくて生まれて来たわけではない。そういって隠しておく。神様から貰った1ムナに手を付けずに、それをそのまま返すのが差し引きゼロで一番安全だ。本当に神様なんかとはなるべく関わりを持ちたくない。急にまたやって来て、あるいは自分の人生の総決算である死が訪れて、神様の前に立たされて、さてどうだ、1ムナはどれぐらい増えたのかと尋ねられても、とても神様にお見せできるような人生ではない。人に誇れるような人生でも全くないし、と。

 やっぱりそう思う。実際に、1ムナが10倍に、5倍に、そんな風になっていて欲しいですけれども自分は、親に、兄弟に、友人に、また子どもたちに、勝る者ではないわけです。

 

 けれども、このたとえ話の慰めは、タラントンのたとえでもそうですけれども、人生に失敗はない、ということです。タラントンもムナも、庭に埋めておいたり、どこかに隠して置いたりしないで、使って消費すれば、投資すれば、必ず倍以上に増える。それは使ったら減るということにはならないのです。

 神様の査定の仕方がそうであり、主イエス・キリストの生涯もそうでした。儲かったかどうかとか、人の誉れを受けたかどうかとか、長生きしたかどうかとか、そういう所で人生の価値は決まるのではありません。

 神様は厳しい取り立て屋ではなく、倍の報酬を、天国の一番良い場所を、惜しみなく与えてくださる方、愛と恵みと命を与えることについて、もう充分与えたからいいだろうと言って、手加減をなさらない方、持っているものにさらに与えてくださる方です。この方の前に隠す必要はありません。いいところだけで人生を取り繕って、エエ格好をする必要はありません。その人生にたとえ恨みや、深い悲しみや、怒りがあふれていたとしても、与えられた1ムナで、必死に歩んでいるこの私たちの人生を見て、神様は、良くやった!と言ってくださいます。

 

 こういう、主イエス・キリストの神という、この私の命と、また他のすべての人の命の、送り手であり、そして受け取り手でもあるかたがいらっしゃる。その神様に生かされている私たちがするべきは、力を込めて自分の人生、またある場合には他の人の人生を握りしめていたこの両手を離して、大きく神様の前に開くことです。こだわりを含んだ自己実現を打ち砕かれる必要は、神学生だけでなく、この私たち皆にもある。そして私たちが知るべきは、自分の思い通りにいく人生よりも、神様に手を引かれて導かれていく、神様の思い通りにいく人生の方が、広くて、大きくて、優しく、柔らかくて、そのほうが自分のためにも人のためにも、良いのだ、ということです。

 神様を、自己実現のための道具にはできません。反対に神様によって、私を、一番良い私に、仕立て上げていただく。私たちが、今自分で思っている以上の、本当に良い私になるために、本当に良い人生、実りの大きな人生を送るために、神様にこの身を委ねて、この週も歩んできたいと思います。