2021321日 ルカによる福音書192844節 「主イエスの涙」

 先週、自己実現という話をして、私たちには、自分のこだわりというものに偏った自己実現への願望が、拭い難ものとしてあるということを語りました。そしてそれが、神様の思いに沿うような自己実現を阻み、拒んでしまうと。先週の御言葉の最後の言葉には、「ところで、私が王になるのを望まなかったあの敵どもを、ここに引き出して、私の目の前で打ち殺せ」という痛烈な言葉が語られていたのですけれども、その言葉には、神様によって導かれることを拒む自己実現は、結局最後はどうなるのかという末路が示されています。つまり、最後は、殺し合いになる。主イエスもかつて、このルカによる福音書9章のところで、「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救う」と言われました。結局、自分に与えられた1ムナをどう使うか、ということなのです。この一つの命で、この一回切りの人生をどう生きるのかということは、やり直しの利かない、あれかこれかという問題に最終的にはなってくるのです。その1ムナを、その命を、神様のために使うものは、それを救う。しかしそうせずに、自分の命を救いたいと思うものは、つまりその命を悪い意味で囲い込み、すべてを自分のしたいように、自分のために、自分の願望通りの自己実現を生きようとし、あくまで自己保全をし、自己保身を優先して生きていく者は、結局最後には、その当然の成り行きとして、神を殺すのです。なぜならその生き方にとって、神様邪魔になるからです。自分を無から作り出し、この自分を生かし、この自分の人生を導こうとする神を、そこでは許容できないし、受け入れられないのです。自分を生かして神を殺すか、もしくは、神のために生き、神が与えてくださる命によって生きることを選ぶか。主イエス・キリストは、どっちのためにあなたのその命を使うのかという二者択一を、御自身も自らの命を懸けて、命懸けで私たちに問いかけてこられ、その選択を真剣に迫っておられます。

 今朝もこの御言葉を読んでいて、確かにこれは、地球の裏側で今から2000年前に起こったことについて、それを記録して、語り伝えるために書かれた言葉であるのですけれども、今日の御言葉の中にも、ここには、先週一週間を生きてきてこの自分自身の姿が、それも自分中心の、利己的な自己実現に励む自分の姿が、本当にありありと表れているということに、つくづく気づかされます。

 

 主イエスはこの時、ユダヤ人の自己愛的な愛国心によって、この人物はユダヤの国の再建を担う救世主に違いないと担がれる形になって、そういう人々の熱狂の渦の中で、エルサレムの町に上って行かれました。人々はそれぞれ主イエスの背中に、長年の民族的念願、イスラエルの国としての主権の奪回、そのことを中心とした、民族的な自己実現の願望を重ね合わせていました。

 もしこの状態をこのままで放っておいたら、この後一体どうなっていくでしょうか?これは予想ですが、きっとみんなが主イエスに近寄り、媚びを売り、ごまをすり、どうぞ私の用意した馬にお乗りください、とか、どうぞ私の用意させていただいた着物をお召しください。弟子じゃ頼りないですから、私がボディーガードをしますよ。どうぞうちで取れたこのおいしいブドウをお食べください。そして、ぜひ今日は私の家にお泊りくださいと、そんな風にして、きっと大勢の人々が大挙して主イエスににじり寄るということになっただろうと思います。しかし主イエスは、小さな村を通過される時に、弟子たちに、私が乗っていくための子ロバを引いてきなさいと指示されました。そして弟子たちがその指示に従って村に入っていったら、本当に主イエスの言っておられた通りのことが起こったということが、細かく丁寧に、聖書に書かれています。

 多くの聖書研究者は、これは主イエスの千里眼であり、先を見通すことのできる、主イエスの王としての特別な力が、このことによって示されているのだと解釈していますが、私はそうではないのではないかと思います。放っておいたら人々によって担がれてしまう、民族復興のヒーローに仕立て上げれてしまう。あれよあれよという間に、王様が乗る車輪付きの戦車に、鎧を着せられてしまうような、そんなことさえ起こりかねない状況の中で、主イエスはロバを、乗り物として指定されました。

 主イエスがロバに乗ってエルサレムに入城されたということの意味は、主イエスは、ロバに乗ってやってくるぐらいの、優しい王であるということ。人が歩く速度と変わらない、あるいはそれより遅いような、拍子抜けするゆっくりさと、子ロバに乗っていれば、ともすれば、馬に乗りながらでも地面に足がついてしまう。そんな、子どもでも手を伸ばせば届くような低さで、この主イエスという王は、一番遅い人のスピードにあわせて、一番弱い人の弱さに合わせてくださる王として、私たちへと届いてくださる、それがロバによるエルサレム入城によって示されていることです。

また、さらにもう一点加えるならば、主イエスが子ロバに乗って入城されたということは、どの町のどの家にでもいる子ロバのような、未熟で弱い、そんなこの私たちのような者をも、主イエスは大事に用いて、私たちが差し出すこの小さな背中にも、乗ってくださり、共に歩んでくださるお方だ、ということをも、このことは表していると思います。

 

しかし今朝私たちは、そのロバによるエルサレム入城に合わせて、この次に語られている主イエスの姿に、特に目を留めたいと思うのです。それは4142節の御言葉です。

19:41 エルサレムに近づき、都が見えたとき、イエスはその都のために泣いて、19:42 言われた。『もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら……。しかし今は、それがお前には見えない。』」

 衝撃的な言葉です。この時の主イエスは、十字架に架かられる一週間前の土曜日を過ごされていたと思われます。そして主イエスは、自分は最後の一週間をこの町で過ごすということを自覚されていて、もうここが最後だという決意と覚悟をもってエルサレムの都に差し掛かられた時、主イエスは泣かれた。

 主イエスが泣かれたと聖書が記すのは、今朝の個所と、ヨハネによる福音書11章の二箇所だけです。そしてこの二箇所の涙には、少しの意味の違いがあります。ヨハネによる福音書の方では、主イエスは、愛するラザロの死に直面されて、「心に憤りを覚え、興奮して、涙を流された。」とあります、それは人の命を奪う死に対して主イエスが震えるような怒りを覚えられた時の怒りの涙でした。しかし今朝の御言葉では、悲しみのために泣く、という意味の言葉がここに使われていますので、これは悲しみの涙であり、嘆きの涙だと言えます。

 しかし、主イエスにこのとき何が起こったのでしょうか?山を登り切って、エルサレムの都が目の前に見えた時、主イエスは、なんだか急に悲しくなられて泣かれたのでしょうか?主イエスはそんな情緒不安定な方ではないと思います。

 これは想像ですが、主イエスはずっとここのところ、またエルサレムにだんだんと近づいていくにつれて、深い悲しみを心に募らせておられたのではないかと思うのです。そしてエルサレムについた時、とうとうその悲しみが心から溢れ出して、泣くことを止められなかったということなのではないかと思います。

 

 そういう風に主イエスの内面を推し量ると、今朝の御言葉も、また読み方、味わい方が変わってくるのではないかと思います。主イエスは、人々からの歓声を受けて、人々からの熱狂の中をエルサレムに入城されたわけですけれども、その時にも、主イエスの心には悲しみがあり、既に深い孤独があったのではないか。

 3738節には、弟子たちの喜びの神賛美が語られていて、主イエスもそれを良きものと受け取ってくださっていますですけれども、しかしその時の主イエスにも、心の深いところでは、痛みと苦しみがあったではないかと思うのです。37節には、19:37 イエスがオリーブ山の下り坂にさしかかられたとき、弟子の群れはこぞって、自分の見たあらゆる奇跡のことで喜び、声高らかに神を賛美し始めた。」とあります。なぜ弟子たちは、神を賛美し始めたのか?それは、既に聖書にその理由がしっかりと書き記されていますように、弟子たちが、奇跡を見たからでした。もちろん主イエスには、奇跡を行う大きな力がありますが、その力は、第一義的な、根本的なものではありません。奇跡をおこなうために主イエスは来られたのではありません。主イエスの全ての奇跡の裏には、奇跡を通して示したい神の愛がありました。しかし人々は、目に見えるもの、分かりやすく人の目を引くものの前では足を止めて驚嘆の声を上げるのですが、愛や哀れみやそういう見えないもの、愛からくる忍耐や、それを掴むためには、よく考えたりよく祈ったりすることが要求とされるような、事柄からは、人々はすぐに目をそらします。時間のかかる、ある意味しんどいものを、煩わしいと人は思い、そこから離れていきます。

 しかしこの時主イエスを取り囲んでいたのは、目に見える、大きく華々しい、奇跡を可能にするような大きな力が見たいという、そういう意味で、表面的にしか主イエスを見ない人々でした。そして、この弟子たちの言葉も、やがて、事柄が自分たちの思い通りにならないのならば、「何だよせっかく応援してやったのに、ほんと裏切られたわ」という罵りに変わってしまうような、ほんの一瞬、熱を帯びただけの、一過性の火照った言葉だったのです。それは、それがたとえ賛美の言葉であったとしても、神様が自分の期待通りに動いてくれないということが分かった時には、ほとぼりが一気に冷めて、それは冷たい不信頼に様変わりしてしまいます。

 弟子たちは38節で、19:38 「主の名によって来られる方、王に、/祝福があるように。天には平和、/いと高きところには栄光。」と、まるで主イエスが誕生された際に、天使が語ったかのような賛美を口にしていますが、ルカ福音書の始めで、天使が羊飼いたちに語った言葉は、天には平和でなく、地には平和、という言葉でした。地に平和をもたらすためにイエスは生まれたのだと。その場合の、地とは、これは世界の世と書いて、世と読みますけれども、その世という言葉を同じ意味で使われて、地も、世も、それは神様から離れた暗い地であり、闇の世界のことを表しています。そして、その地であり世に、主イエスが光として来られたというのが聖書全体の福音のメッセージなのですけれども、天に平和と語る弟子たちは、自分たちの、この世界とこの地上の暗さに、そしてそこにある問題に気づいていない。それをすっ飛ばして語ってしまっているのです。主イエスがこの後されることは、闇の中にあるこの地上に光をもたらすために、主イエスが変わりに黄泉に落とされたという十字架なの犠牲なのですけれども、しかしここでの弟子たちの言葉は、その十字架をも通り越してしまっています。

「天には平和」という言葉は、なんだか聖書によく出てくる言葉のようでいて、実はここにしか出てきません。そういう意味ではこれは、厳しい言い方をするならば、天使が語った聖書の、勢いづいた弟子たちによる改ざんだと言うこともできます。

けれども主イエスは、とても優しい方ですので、弟子たちのそういう、表面しか見えてない、ほころびのある賛美をも、しっかりと受け取って、しっかりと評価してくださるのです。しかし、そうではあっても、キリストを信じる信仰を持って従っているクリスチャン、そういう弟子たちの中からさえも、こういう聖書の言葉や思想の中から自分たちの好む言葉だけを引き出して、自分たちの好みに合うように解釈しようという、あるいは聖書の言葉に自分たちの願望を混ぜ込んでしまおうという思いが出てくる。聖書をなまじっかかじっているからこそ、そういう改鋳が時に起こる。そして彼らのそういう言葉や姿勢が、この時、深いところで主イエスを苦しめ、悲しませたのではないか。

 そういう意味では、その弟子たちに皮肉を言い、文句をつける39節に登場するファリサイ派の人々も、表面的には互いに対立しているようでいて、実は大差はなく、両者とも本質的には主イエスを理解しておらず、両者とも、主イエスの心に悲しみを湛えさせてしまっているのです。

 そして本当にここに、先週の私たちのリアルな姿が、私の姿がある。神様を自分の願望に従わせようとしていた節が先週の私の中にもあった。自分の願い通りことを導いてくださらない神様に対して苛立ち、腹を立てて、神様の方が間違っていないかと抗い、踵を返す自分がいた。そういう心があった。自分も、この熱しやすく冷めやすい群衆の一人であったと、言わざるをえません。

 

 しかし主イエスは、そんな私たちのために泣いてくださいました。主イエスは、御自分のために、誰も分かってくれず、自分が可哀想だと泣かれたのではありません。主イエスは、誤解に誤解を重ねる弟子たちのために。地に平和を与えるために来られた主イエスを拒むエルサレムの都のために。そういう神戸の街のために。そういう弟子たちのために。時に神様を賛美しながらも大事な的を外してしまう教会のために。そしてこの私たちのために、泣いてくださったのです。

力と奇跡を見て神を賛美し、もっともっと、そういうものが見たい、もっと大きな奇跡を見せてくれと煽った弟子たちが、この一週間後に目にしたものは、力とは反対の、神の無力、十字架の上で息絶える、その意味では愚かしい主イエスの姿でした。痛みを背負い、自分の命を失い、殺されてくださったのは主イエスの方でした。

ちょうど私たちも、受難週の一週間前にいます。私たちのために涙を流してくださりながら、私たちのために命を捧げてくださった主イエスの後ろ姿こそ、感謝と賛美に値します。私たちのための十字架は、手の届かない高いところにあるのではありません。それぞれの足元に、手を伸ばせば触れられる近さで、今のそのあなたのために、涙を流す主イエス・キリストがおられます。