2021年3月28日ルカによる福音書21章25~28節 「教会の改革」
主イエスはエルサレムの都に入られる時、先週の御言葉の中で、その都のために泣かれました。そして今朝の御言葉では、主イエスは怒っておられます。今朝私たちが受け取りたいのは、泣くまでしてくださり、怒ってもくださる、主イエスの私たちに対する本気です。神であられる方、神の御子主イエス・キリストの、涙と怒りの本気の力が、今朝もこの教会に、そしてこの私たちに、まっすぐに強く向けられている。そういう主イエスに、今朝も私たちは目と目を合わせて出会いたいのです。
先週の41節で、主イエスはエルサレムに近づき、都が見えたとき、その都のために泣いた、とありました。そして続けて42節で、「もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら」と。そして最後の44節の終わりには、「それは、神の訪れてくださる時をわきまえなかったからである。」と言われています。
主イエスがエルサレムの都のために泣かれた理由は、具体的には人々が、平和への道と、時をわきまえていなかったからだとされています。つまり人々が、自分では平和だと思っているかもしれないけれども、実は平和ではない。また私たちは、本当に時を自分で決めたがります。「もう遅い、まだ早い。今がその時だ、今はまだ時期尚早だからよしておこう。」しかし、そういう私たちの物差しとは別の、神様が定められている時がある。神様が私たちを導こうとしてくださっている、大きな平和がある。しかし、もう涙が出て仕方ないぐらいに、人々は皆、それらのことを分かっていない。けれども主イエスは、そのような、わきまえていないすべての人のことを、諦められたりはなさいませんでした。
主イエスが、エルサレムに入られて、まず真っすぐに向かわれた先は、神殿でした。では主イエスは何のために、神殿に行かれたのか?それは、追い出すためです。ここで使われている、人々を追い出す、という言葉は、人々をひっくり返すとも訳せます。主イエスはエルサレムの街に入って、まず、何よりも神殿に向かわれて、その中をひっくり返されたのです。
今朝の説教題を「教会の改革」と付けましたけれども、改革とはひっくり返すことです。主イエスを熱烈に歓迎した群集たちは、主イエスを軍事的な改革者、政治的な改革者として期待して、その意味でイスラエルを救ってくれる救世主に、主イエスを仕立て上げようとしていました。この時に人々が求め、期待し、歓迎していたのは、自分たちの願望をかなえてくれるメシア、自分たちにとって都合の良い救世主です。自分たちの願う救いを成し遂げてくれる救い主が今来るべきだ、そしてその先にこそ平和があると、人々が願い考えた。神様とはその時、人間によって好きなようにコントロールされ、人間の利益をかなえるために利用されるような神様だった。しかし主イエスは、イスラエルの宗教の本拠地であるエルサレム神殿に踏み込んで、それをひっくり返すのです。
そこでは、たくさんの人々が商売をしていました。そこでは神殿に捧げるための犠牲にするため、いけにえの動物が売られ、またイスラエルの通貨で献金をしなければなりませんでしたから、両替商がたくさんいた。
けれども、今朝の45節46節です。「19:45 それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで商売をしていた人々を追い出し始めて、19:46 彼らに言われた。「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家でなければならない。』/ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にした。」」
ヨハネによる福音書では、この時主イエスは、縄で鞭を作り、両替人の金をまき散らし、その台を倒した、とまで書かれています。つまり主イエスは、非常に強い怒りをもって、人々のしていることをやめさせた。その方向を正した。
「『わたしの家は、祈りの家でなければならない。』/ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にした。」と言われた主イエスの言葉は、先ほどお読みしたエレミヤ書から引用されている言葉です。
神殿で商売をするという振る舞いは、ここでは、神殿を強盗の巣にすることと等しいことだった。商売というものは、根本的に、人間との間の貨幣を介したコミュニケーションであり、しかも、自分の利益のために行うものです。しかし、わたしの家は、祈りの家でなければならない。商売とは違って、祈りは、神様との間のコミュニケーションです。そして神様の家は、そのための場所である。
けれども、年に一度の過ぎ越しの祭りの時期であり、大変なかき入れ時に、神殿では祈りよりも熱心に商売がなされ、集まる人々も、賽銭箱に賽銭を投げ入れるようにして、とにかくいけにえと献金を捧げて、これで良し。これで平和と祝福は我のもの。来年も安泰だ。とする心があった。エレミヤ書の7章も語っているような、「主の神殿、主の神殿、主の神殿という空しい言葉」。「とりあえず神殿行って、お供えしといたから、安心やろ」という思い。神様の前に悔い改めて、心を正すよりも、そうやって心を砕かず、財布の中身だけ少々砕いて、それで事足れりとする礼拝が行われていた。神様にささげられるべき心が、まるで強盗に盗まれてしまっているかのような状態でした。
そこで主イエスは、そこで商売をしていた人々を追い出した。一人で、神殿商売人たちを追い出すことは大変です。主イエスはものすごいパワーを使って、ものすごい怒りをもって、その人々の信仰生活、神様への姿勢を、ありったけの力でひっくり返されました。
そしてこれは、何を意味するのか?これは、主イエスが、泣けるほどわきまえていないすべての人々を、決してそのままお見捨てにならなかった、ということを意味しています。そしてその後主イエスは、47節で言われていますように、「毎日、イエスは境内で教えておられた。」毎日、境内で教えておられた、というこの記述は、十字架前の一週間を、一日刻みで歩まれていて、おそらくこの時は安息日の土曜日を過ごしておられたと考えられる、主イエスの当時の時系列としては、ちょっとおかしいように思います。
ですので、ここでルカ福音書は、明らかにこの後の教会の時代のことを考えて、そこに思いをはせてこの、毎日という言葉をここに置いていると思われます。47節48節を改めて読むと、こういう言葉の連なりになっています。「19:47 毎日、イエスは境内で教えておられた。祭司長、律法学者、民の指導者たちは、イエスを殺そうと謀ったが、19:48 どうすることもできなかった。民衆が皆、夢中になってイエスの話に聞き入っていたからである。」
これは、神の家である教会で起こることです。そこは祈りの家でなければならない。そこでは毎日、イエスが教えておられる。そこでは、民衆は皆、夢中になってイエスの話に聞き入る。聞き入ると訳されている言葉は、彼の言葉にしっかりつかまって、彼の言葉を手放さないという意味の言葉です。これは英語では、hang on、つまり電話を切らずにおくという言葉です。つまり教会では、人は皆、イエスの言葉につながり続けて、そこから切り離されない。そして教会にある、その主イエスと人との結び付きは、誰にも邪魔することができない。たとえ主イエスを殺そうと謀る様々な者たちが、その教会を壊そうと、主イエスを殺そうと、妨害を加えようとしても、しかし手を下すことができない。「彼らはどうすることもできなかった」とあります。そういう風にして教会は、主イエスとつながることで、祈りと、イエスの御言葉に切れずにつながり続けることによって、武力も持たず、ここには何の武器もないのですけれども、しかしながら、しっかりと、そこでは命が守られるのです。
ルカによる福音書はそれをカットしていますが、マタイによる福音書21章の並行する同じ部分の御言葉には、このことに続いて、その時、「21:14 境内では目の見えない人や足の不自由な人たちがそばに寄って来たので、イエスはこれらの人々をいやされた。」そして「境内で子供たちまで叫んで、「ダビデの子にホサナ」と言った」とあります。
目の見えない人や足の不自由な人たちは、当時は神殿には入ることを許されず、彼らは神殿の外に座って、物乞いをする以外にありませんでした。けれども彼らが、神殿の中に入ってきて、主イエスのそばに寄って来た。そして主イエスはそれらの人々を癒された。さらに、それを見た子どもたちも、「ダビデの子にホサナ」と神様への賛美を歌い出したとあります。
そして主イエスの改革は、ここを目指していた。教会は、こういう場所になるべきなのです。教会が持っているほかにはない一番のものは、ここに、すべての人に対して開かれた、主イエス・キリストとの出会いがあるということです。その出会いによって、足の立たない人は立ち上がる力を与えられる。見えない闇の中にあった人は、光を与えられる。子どもたちも、誰でも、誰もが、顔を上げて、自分たちの造り主であり、救い主である主を賛美する。そこは祈りの家であり、皆が主イエスの言葉と切り離されずにつながることによって、命を得る。
今週は受難週です。主イエスが十字架で死なれたとき、その時には神殿の一番奥にある、人が入ることのできない至聖所の垂れ幕が真っ二つに避けて、神様と人間を隔てるものがなくなりました。神と人間の隔ては、主イエスによって取り払われた。これは本当のことです。そして聖書は、あなたがたの体は、生ける神の神殿なのですと、今、この私たち自身が、神様を宿す神殿となっているとも語ります。つまり教会の改革は、同じく神の神殿である私たち自身の改革なのです。
教会は、祈りの家でなければならない。毎日、主イエスは教会で教えてくださる。そして集まる人すべてが夢中になってその話に聞き入り、その教えで癒され、力を得る。その時には、殺そうと図る者たちも、教会に手を付けられず、どうすることもできない。
つい先週、会員総会をやっと行うことができ、予算決算が決められ、新しい役員も選ばれました。何のためにか?もちろん商売のためにではない。それは、ここがより豊かな祈りの家になるため。より深く、主イエスの教えに立って、毎日主イエスが、御言葉を通して、また礼拝をはじめとした教会の様々なプログラムを通して、この境内でより豊かに教えてくださることができるようになるため。皆が、この境内に今はまだ入っていない人たちも含め、招かれて、共に主イエスの聖書の御言葉に、福音に、分かち難くつながれるためです。
そして、絶えず主イエスを見上げてそこを目指す教会の改革は、私たち一人一人の人生をも改革し、大きく変える。かつては、主イエス・キリストという救い主の名前さえ、その存在さえ知らずに、自分のために生きていた、私たちでが、しかしひっくり返されて、ダビデの子にホザナと、主イエスを賛美する者に変えられる。
涙を流してくださった主イエスは、この私たちのために、さらにまた今朝の御言葉でも、ありったけの力で、命を懸けて、十字架の血を流し、それだけの愛をもって、この私たちのことも、この板宿教会のことも、本気で命へと、ひっくり返してくださいます。この主イエスに出会いたい。今朝も目と目を合わせて出会わせていただきたいと思います。