202144日 イースター ヨハネの手紙一5章13~21節 「永遠の命」

 永遠の命。命という言葉が、これほど、感慨深く胸を打つ、こんなイースターは、今まで経験したことがありませんでした。ちょうど去年のイースター礼拝から、5月末までの2か月間、私たちは、集まって行う形の通常の礼拝を控えて、オンライン礼拝に切り替えました。それからちょうど一年間の今日この朝、何が起こってもおかしくなかった、色々な可能性がありえた、全く先の読めなかったこの一年間を経て、今、私たちが生きているということは、2021年のイースター礼拝を、今度はこうやって会堂で、生きて捧げることができることは、大げさではなく、心震える現実です。

 

一年前、大先輩の牧師先生からお手紙をいただきました。そこには、私は怖いと書かれていました。この病が怖いのは、すべての病もまた同じだけれども、後ろに死が控えているという不気味さゆえだ。私は信仰が弱いので、その死の不安を解消することができないが、少しでもその不安の解消に近づきたいと願うと、素直に綴られていました。

私は信仰が弱いので、その死の不安を解消することができない。少しでもその不安の解消に近づきたいと願う。素直に書き記されたその気持ち、その心細さに、私にはない繊細さと、同時に切なさとを覚えました。

 この他にも、このコロナウィルス禍の中で、いつもドキドキしながら、ビクビクしながら過ごしていると、歌の歌詞に書き記していた若い女性アーティストがいました。

 

 50代の、ある劇作家も語っています。「こうした現象を引き起こしている直接の原因は、よくよく考えると、実はウィルスではありません。では何が原因なのかといえば、それは人間が抱いている怖れという感情です。ウィルスに対する怖れが町やお店を閉鎖させます。ウィルスに対する怖れが感染者をバッシングさせます。ウィルスに対する怖れが差別させます。ではなぜウィルスが怖いのかといえば、それはウィルスに感染すると、自分や自分の愛する人々が、死んでしまう可能性があるからでしょう。あるいは自分とは直接関係なくても、大勢の高齢者や病人が死んでしまう可能性があるからでしょう。つまり私たち人間が全世界的に一斉に活動を停止してしまったのは、死の恐怖に怯えていたからだといえます。」

 

 死の危険性、その恐れ、その恐怖への怯えが、意識下で、あるいは無意識下で、毎日、かつてないほどすごく強くあった、それを毎日つかれるほど経験した、実際そんな一年でした。そしてこの毎日は、まだ続きます。終わっていません。

 どうしますか?もう気にしなくて良いのでしょうか?もう少し、私たちは鈍感になっていけばよいのでしょうか?違います。私たちはそのやり方でコロナ2年目を迎えていくのではない。今朝はイースターです。主イエス・キリストが復活して、その身をもって見せてくださった永遠の命。改めて、私たちは、死よりも強いこの永遠の命によって、コロナ2年目を歩み出し、乗り越えましょう。今朝、永遠の命をしっかりとこの手に握ることこそが、死の危険、その恐れ、その恐怖への怯えに打ち勝つ強さを得るための、私たちにこそ与えられた、最も確実で有効な手立てであるにちがいありません。

 

 では、永遠の命とは、一体何でしょうか?聖書は、そして特にこのヨハネの手紙は、最初の1章の2節から永遠の命のことを語って、それを伝えると宣言し、そして今朝の最後の言葉まで、まで一貫して永遠の命を語っています。そして、このヨハネの手紙Ⅰが最初から最後まで一貫してそれを語っているところの永遠の命は、およそ私たちが考えるような全く異なる、私たちの全く知らなかった命です。

 永遠の命と聞くと、せいぜい私たちは永遠に延長される、ずっと続く命というぐらいにしか考えられないと思うのですけれども、聖書が語る永遠の命は、そういうことではありません。そしてもう一つ、永遠の命を考える時に大事になってくる、愛という言葉があります。そしてこの愛という言葉が含む意味も、聖書が語るところは、およそこの私たちが考え経験してきた愛とは異なる別の種類のものです。そして今朝はそこを、御一緒に受け取りたいのです。

 

 しかし、実はこうやって話している私自身も、永遠の命が何なのか、分かるようで分からない言葉ですので、ずっと疑問を持っていました。けれども神学校に入って、そこである先生から教えていただいて、永遠の命についての疑問が晴れた、ということがありました。その先生は私に、「永遠の命を考える時には、キリストから目を離してはいけない」と、教えてくださいました。

 これは本当にその通りで、結局このヨハネの手紙Ⅰが、ずっと語っていることも、「永遠の命を考える時には、キリストから目を離してはいけない」キリスト抜きで、それは考えられない。つまり、永遠の命とは、イエス・キリストのことなのだ、というメッセージなのです。

 

 その証拠に、ヨハネの手紙Ⅰの最後の言葉、今朝の520節を読むと、こうあります。「わたしたちは知っています。神の子が来て、真実な方を知る力を与えてくださいました。わたしたちは真実な方の内に、その御子イエス・キリストの内にいるのです。この方こそ、真実の神、永遠の命です。」つまり、最後にはイエスこそ永遠の命ですと言われています。永遠の命はイコール、イエス・キリストなのです。どういうことなのでしょうか?こういうことなのです。つまり、命という言葉によって、心臓という臓器のことだとか、出産、誕生、死、葬式、生命保険、そういうことを普通は考えるのですが、今朝はそういうことを、いったん隅に置いて、考えないでおきましょう。代わりに、主イエス・キリストをじっと見つめる。この方こそ、あなたの永遠の命ですと聖書が言いますので、そうなのか、命とはイエス・キリストのことなのかと、まずその言葉を、今朝はそのまま飲み込んでみてください。

 そして畳みかけるように言いますが、永遠の命、イコール、イエス・キリストと今言いましたが、それに加えてもう一つの方程式を思い浮かべてください。それは、愛、イコール神という式です。ヨハネの手紙Ⅰの416節に、このことを示す、「神は愛です」「神は愛なり」という言葉があります。愛というものは、ピンクのリボンのついたプレゼントとか、結婚指輪とか、マスクを外して一緒に歩ける関係とか言うことではないのです。愛は神です。神が、愛です。神様という方は、雲の上にいる白いひげを生やした方ではないのです。神は愛です。

 そして、永遠の命=イエス・キリストという式と、神=愛という二つの式が、イエス・キリスト=愛というかたちで、結び付くのです。ヨハネの手紙Ⅰの316節にこうあります。「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。」

 そして、ここまで来たらもう一つ、ヨハネの手紙Ⅰで最も有名な御言葉である410節もお読みします。「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」

 イエスが私たちのために、命を捨てた。罪を償ういけにえになった。つまり、イエス・キリストが、十字架に架かって死んだ。それが愛だ。私たちが神を愛するのが愛ではなく、それよりも先に、まず、神が私たちを愛して、私たちのために主イエス・キリストを十字架にかけた。つまり、愛とは、神様が私たちに、イエス・キリストのその存在そのものとその全生涯を使って、私たちに与えてくださるものです。それが神様の愛の芦原仕方であり、それが愛です。愛とはそれなんです。それは神様にもらうもの、それは、イエス・キリスト抜きでは全く愛ではない。神の愛はイエス・キリストを使ってもたらされる。その愛にはキリストの十字架の血がついている。愛とは痛いもの、苦しいもの、そこには主イエスの血が流れます。そういう険しいものです。主イエスはそれを命懸けで、表し、与えてくださった。そして、十字架ので死んだ主イエスは、今朝のイースターで、復活してくださった。そういう意味では、主イエスは死をも、ものともせず、それをへっちゃらで、乗り越えてくださった。こんな芸当がおできになるのは、唯一、神の御子、主イエス・キリストだけです。

 

 聖書が、永遠の命という言葉を使う時、それはずっと長く続く長い命という言葉ではなくて、聖書に出てくる永遠とは、初めも終わりもないという意味の言葉です。時間には必ず初めと終わりがありますから、永遠ということはつまり、時間の枠を超えているということです。

 そして、永遠の命とイコールでつながれる主イエス・キリストは、時間の枠を超えた、初めも終わりもない命を常に生きておられる方なのです。

 じゃあ、どうやったらこの永遠の命を受けられるのか?その答えは今朝の最初の513節に出ています。「神の子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書き送るのは、永遠の命を得ていることを悟らせたいからです。」

 神の子主イエス・キリストを信じているあなたがたは、永遠の命を得ている。あれ?そうなの?と思われるかもしれませんけれども、今朝も柳原さんが、キリストのみを信じ受け入れ、寄り頼みます。と皆と神様の前で誓約をしてくださいましたけれども、信じることで、永遠の命に、イエス・キリストに、神様とその愛に、しっかりと結び付けられるのです。そして、この主イエス・キリストを信じて、主イエス・キリストに結び付けられるということ自体が、もう永遠に朽ちず、尽きない、命を獲得したということになるのです。

 

 その時にどうなるか?その時にはまるで人生が、たとえは悪いかもしれませんが、主イエス・キリストの背中に乗って進む、USJの、遊園地の、アトラクションのようになる。スパイダーマンでもハリーポッターでも、アトラクションが始まると、最初のうちは平穏無事で楽しいのですけれども、途中で必ずトラブルが起きる。エマージェンシーランプが点灯して、強い敵が現れて、追い詰められて、負けそうになり、危なーい!などと声がして、冷っとして、本当に死の危険にさらされる。でもそこから持ち直して、逆転して、必ずハッピーエンドになって、ああよかった!となって、ほっとして無事に帰ってくることができる。

 主イエス・キリストを信じ信頼し、この方に身を委ねて、イエス・キリストの背中に乗って、進めばいい。途中トラブルがあり、危機があり、その中を孤独に怯えながら歩む日があったとしても、私のために死ぬ気で、命を捨ててまでしてくださる主イエスが一緒におられる。私がある日、死の苦しみに瀕して、ついぞ死を経験するがあったとしても、十字架の死から黄泉に下って、誰よりも深い地獄まで経験し、それも知り尽くしたうえで、そこから復活してくださった主イエスに結ばれているなら、死さえも何のその。私たちはイエスと一緒に、死をも乗り越えて復活の命に至り、天に昇る。そして、この心臓の鼓動による命を超えた、もっと大きな命をずっと生きていく。

 

 今朝の御言葉は、あなたがたは永遠の命を得ていることを、悟らせたいと語りますし、使徒パウロはこのことを、「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしのうちに生きておられるのです。」とまで言い表しました。キリストの背中に乗っているどころではない。キリストが、わたしのうちに生きておられる。

 ヨハネの手紙Ⅰの4章の、先ほどお読みした、神は愛ですという言葉の後には、「愛には恐れがない。完全な愛は、恐れを締め出します」と語られています。もうここまで主イエス・キリストと深く深く結び付き、その愛を受けつつ主イエスと共に永遠に生きるなら、何も恐れる必要がない。何かを怖がらなければならない理由が、もうない。

 

 病弱で、30歳で亡くなってしまった、クリスチャンの詩人、八木重吉が、「イエス」という題の詩を残しています。

「波がひとつのかわをながれてゆくように、一念にキリストを呼んでゆこう。

 イエスの名を呼びつめよう

 入る息、出ずる息ごとに 呼びつづけよう

 いきどおりがわいたら

 イエスの名で溶かそう

 弱くなったら

 イエスの名でもりあがって強くなろう

 きたなくなったら

 イエスの名できれいになろう

 死のかげをみたら

 イエスを呼んで 生きかえろう」

 入る息、出ずる息ごとに、イエスの名を呼びつめよう。怖くなったら、怯えが来たら、ドキドキしたら、迷ったら、死の影を見たら、死の時にも、復活の命を望み見ながら、共におられるイエスを呼び続けよう。これが、コロナウィルス禍であろうとなかろうと、私たちの歩む道です。