2021年4月11日 ルカによる福音書20章1~8節 「愛で溶かされる心」
プライド、自尊心、誇り、面子、これを私たちはとても重要なものと考えて、大事にして生きています。先輩後輩、年長者か若手か、師匠なのか弟子なのか、先生なのか生徒なのか、親か子か、自分の人間としての番付は人より上か下か、こういうことについて私たちは敏感で、このことに、自分も周りの人も、かなりがんじがらめにされながら生きています。
旧約聖書の列王記下の5章に、ナアマン将軍のエピソードが書かれています。ナアマン将軍は、当時イスラエルよりも強かったアラムという国の、たくさんの武勲を持つ軍隊の長でしたが、重い皮膚病に悩まされていました。そこで、イスラエルの国の預言者エリシャの名前を聞きつけて、銀を342キロ、金を68キロも携えて、王様の親書と共に戦車に乗ってやってきたのです。しかし預言者エリシャは、将軍ナアマンに会いもせず、使いの者をやって、「川に行って七回体を洗えば治る」と言わせます。これを聞いた将軍ナアマンは憤慨して、こう言いました。「彼が自ら出て来て、わたしの前に立ち、彼の神、主の名を呼び、患部の上で手を動かし、皮膚病を癒してくれるものと思っていた。イスラエルのどの川の流れよりも、私の国の川の方がきれいだ。そこで洗って清くなれないというのか。」
神様に癒されるためには、アラムの軍司令官ナアマンといえども、赤茶けて濁っているヨルダン川の前で、鎧を脱いで、裸一貫になって、自分も裸の、病を負った、神の哀れみを必要とする小さな一人の男に過ぎないことを、彼は彼自らで知る必要があった。
プライドの高い将軍ナアマンでしたけれども、神に癒されるためには、彼はその高いプライドを捨てる必要があった。プライド、自尊心、誇り、面子、確かにこういう諸々のことから自由になれれば、どんなにかいいだろうとも思うのですけれども、最近聞いた歌の歌詞に「高い服を脱いでも自分を脱げない。」という言葉があったのですが、本当に将軍ナアマンがそうであったように、裸一貫になるということは、恥ずかしいし、愚かしいし、誇りと面子に関わることでしたので、彼は高い服と共に、それを着ている自分自身のプライドを脱ぎすてるために、7回も、裸で川に全身を浸す必要があったのですけれども、これは私たちにとっても、とても他人ごととは言えないことです。
前回、神殿から商売人を追い出す主イエスの姿を通して、神殿と、教会と、この私たちとを、主イエスはひっくり返されるのだ、ということを知りましたが、今朝の御言葉でも、主イエスは前回に続いて、ひっくり返されることを拒む私たちを、もっと私たちが自由になって、神様に癒されて、もっと良くなれるようにと導いてくださいます。
主イエスは神殿から商売人を追い出して、毎日、神殿の境内で教えられたと19章47節に書いてあります。しかしそういうある日の起こったことが、今朝の1節2節です。
「20:1 ある日、イエスが神殿の境内で民衆に教え、福音を告げ知らせておられると、祭司長や律法学者たちが、長老たちと一緒に近づいて来て、20:2 言った。「我々に言いなさい。何の権威でこのようなことをしているのか。その権威を与えたのはだれか。」」
神殿の境内に入って、そこで教えるということは当時サンヘドリンと呼ばれていた、祭司長や律法学者たちで構成される議会の許可なしには行なえないことでした。
今の私たちの教会にも、説教免許と教師免許という、牧師として教えるために必要な二つの資格がありますが、同じような資格が、この当時も必要とされていました。しかし主イエスは、無免許でした。そして主イエスは、律法学者の弟子でもあられませんでしたので、いわゆる学校に行っていない状態、ユダヤ教の教師としての訓練を受けていない状態でした。そういう門外漢が神殿で教えている。しかも、つい一日二日前には、神殿で大暴れして、そこで売り買いする人々を外に追い出すという、手荒なことまでしていた。そこでさすがに当局者たちとしてはそこに踏み込まざるを得ないわけです。「ちょっと待ちなさい、そこの君、一体どういうつもりなのだ。」そういうかたちで、祭司長たちは、「我々に言いなさい。何の権威でこのようなことをしているのか。その権威を与えたのはだれか。」と問い正したわけです。
何の権威でそれをし、その権威を与えたのはだれか。ここでの権威と訳されている言葉は、力という言葉です。どこのどんな力を後ろ盾にして、誰から力を得て、そんなことをしているのか。何の免許も資格もないあなたには、ここで教える資格はない。今すぐ出ていけ、ということです。 最近よく、マウンティングとか、マウントを取る、という言葉が使われますが、それは、自分が上だと示す言動を取るということであり、自分の優位性を相手や周囲に示す行為です。そういう形で彼らは、自分たちが上であることを疑わず、主イエスに対して上から押さえつけに行きました。
しかし主イエスは、この問いかけに、同じように問い返すことで、答えられました。3節4節です。「20:3 イエスはお答えになった。「では、わたしも一つ尋ねるから、それに答えなさい。20:4 ヨハネの洗礼は、天からのものだったか、それとも、人からのものだったか。」」
主イエスはこの言葉で、馬乗りになる彼らをひっくり返されました。ヨハネの洗礼が天からのものだとしたら、祭司長と律法学者たち自身も、もうヨハネはこの時には既に、ヘロデ王に首をはねられてしまった後でしたけれども、そのヨハネから、彼らも洗礼を受けていなければならなかったという顛末になってしまう。さらには、そのヨハネから洗礼をお受けになった主イエスが、天の神からの権威と力を受けて、その高みから、神殿で神の言葉を教え語ることのできる権威があることを認めることになってしまい、そうなると主イエスは有資格者であり適格者であり、主イエスの為すことを批判できなくなってしまう。
けれども逆に、ヨハネの洗礼が人からのものだったというならば、ヨハネがそこにやってくるたくさんの人々に授けていた洗礼が、神様からの力と権威を帯びていないということになる。そうなると、ヨハネの洗礼を受けた大勢の人々を完全に敵に回してしまうことになり、最悪、ヨハネを支持する多くの民衆から石で打ち殺されてしまう。どちらにしても、この主イエスとの会話に乗って受け答えをしてしまうと、当時の政治と宗教を取り仕切り牛耳っていた、彼らの地位が危うくなります。
一瞬にして彼らが追い込まれる様が、5節から7節に語られています。「20:5 彼らは相談した。「『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と言うだろう。20:6 『人からのものだ』と言えば、民衆はこぞって我々を石で殺すだろう。ヨハネを預言者だと信じ込んでいるのだから。」20:7 そこで彼らは、「どこからか、分からない」と答えた。」
そして彼らは、最後、「分からない」と答えました。彼らはこの時何を考えていたのか?彼らの考えていた事は、自分たちのエゴと、自分たちのプライド。自分たちが恥をかいたり、面目を失ったら大変だという思い。自分たちこそが、社会と、政治と、宗教のトップに君臨する支配者、権威者であらねばならないという思いでした。そして円陣を組むようにして話し合った彼らが出した答えが、「分からない。」という答えでした。これはすなわち、逃げた。勝負を避けたということです。
彼らは「分からない」と答えましたが、本当は、分かっているのです。この時の問答や、当時の宗教的権威者が寄ってたかって取り囲んで非難しようにも、まったく動じられることのない主イエスの言動を見ていて、本当は、これはただ者ではない。普通なら、すいません許してくださいと怖気づくはずが、そうならない。みんなで一緒に取り囲んでいるから何とか攻勢に出ることができるものの、一対一では、とてもかなう相手ではない。
この宗教的権威者たちには、その、主イエスの力と権威が天からのものであることがうすうす分かっていたからこそ、敢えて「分からない」と逃げたのです。ですから彼らは本当は、「分からない」のではなく、「分かりたくない」。答えを知らないのではなく、「答えたくない」「納得したくない」と言っているのです。
ある説教者は、この部分についてこう語っています。「中核は、洗礼を受けるということです。バプテスマを受けるということです。その洗礼を受けるということにおいて明らかになる自分の罪です。私の罪です。他の人の罪ではありません。私の罪です。そして、私の悔い改めです。そこで知る神の赦しです。」
その通りだと思います。ここで問われていることの中核にあるのは、洗礼です。そして洗礼ということによって明らかになる、自分の罪、自分の罪の自覚と、その赦しです。それが問われた所で、彼らは「分からない」と逃げを打ちました。
そんな、逃げる彼らに対して語られた、今朝の最後の御言葉に、とてもドキッとさせられます。8節。「20:8
すると、イエスは言われた。「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい。」」
「分からない。分かりたくない。答えたくない。」と言う彼らに、主イエスの方も、「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい。」と言われて、この言葉を最後に、主イエス自ら会話を断ち切っておられます。とても重い御言葉です。
つまりこれは、舐めるなよ、ということです。主イエスも時にこういう言葉を語られるのです。神様は死んだ置物のように何も語らない、イエスマンではない。神様は生きておられ、心を持っておられ、私たちの言葉に感じ入ることがおできになり、感情と熱意をもって答えてくださる。「みんなで話し合った結果、分からないだと?私を非難し、私に答えさせておきながら、私の問に答えない。冗談じゃない。馬鹿にするんじゃない。」
先程お読みさせていただきました創世記2章では、罪を犯してしまったアダムとエバに対して、神様はお優しい。今朝の祭司長と律法学者たちのごとく、アダムとエバも、罪を犯して分が悪くなって、二人は主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れていた。しかし主なる神は、そんな二人を自ら探しに来てくださって、アダムを呼ばれた。「どこにいるのか?」これは決して、かくれんぼをしていることとは違います。神様はアダムに、「あなたの心は、今どこにいるのか?」と、「その心がわたしから離れて、迷子になっていやしないか?」と、神様はアダムの魂のありかを尋ねられ、探して、声をかけて、見出してくださり、木の間から出てくる機会を与えてくださいました。
けれども今朝の個所で主イエスは、「分からない」と言う彼らに、だったら「私も言うまい」と、言われました。「分からない?それはないでしょう。それではあまりにもひどいでしょう。」主イエスは今朝の御言葉で、「もう時間がない。もう十字架まで一週間を切っていて、いつまでも私がいるわけではない。もうはぐらかすな、話をそらすな、逃げるなと。」切実に言っておられます。そしてこれは、今ここにいる私たちへの言葉にもなっています。主イエスは今朝私たちにも、もう来週はないというつもりで、「分からない。答えたくない。そうですか。じゃあまた来週」ということではないのだと、切迫感をもって、向き合ってくださっています。
ですから本当に私自身も、実はこの説教を語りながら、恐ろしさ、怖さを感じています。説教している自分も鋭く問われるからです。出来たら逃げたい。できたら、この祭司長たちの肩を持って、「分かりません」と、「逃げを打つことだって時にはありますよね」と、「どうしても、はぐらかしてしまったり、保留しておこうと思うことだってありますよね」と言いたくなります。けれどもそうしたら、主イエスは、「わたしも言うまい」と、プイっと踵を返してしまわれるのです。主イエスはここで言われている。「もう来週はもうないんだと、来週までに私は、そのあなたの、誰かのじゃなくて、あなたのその罪の赦しのために、十字架に架かるのだ」と。「その十字架に結び付けられるための、洗礼は、受けても受けなくてもいい、今でも後でもいい。決してそんな風に思わないで欲しい。」「ヨハネの洗礼を通して、あなたが教会で受ける洗礼を通して、神の力と権威が働いて、それを受ける人には、完全な罪の赦しと、死を克服する完全なる命が与えられる。これはあなたの人生に、なくてはならないものなのだ。それを今与えたい。受け取って欲しい。あなたの人生は、この福音なしには無に帰するのだから。」
ナアマン将軍のように、戦車から降りて、鎧兜を脱いで、裸一貫になって、実際にヨハネが主イエスに洗礼を授けたヨルダン川に入って、癒され、罪の汚れを、自分のプライドと共に脱ぎ捨て、洗い落とす。その時、あなたを生かす天からの権威と力が、あなたに流れ込む。ナアマンがヨルダン川に七度身を浸した時、その体は元に戻り、小さい子どもの体のように、清くなったと聖書に書かれています。そしてエリシャはナアマンを、「安心していきなさい」と言って送り出しました。
子ども同士が喧嘩をしてわめき散らしているとき、さらに大きい声でしかりつけても逆効果です。それでは子どもはかえって激しく泣き叫んで、火に油を注ぐようになってしまいます。しかしその時に、逆に親に優しくその怒りを受け止めてもらって、優しく抱きしめてもらった子どもは、自分を取り戻し、満たされ癒されて、傷つけ合ってしまった相手に謝ることさえできるようになり、相手を赦し、和解に向かって進むことができます。
そして私たちも、上から叱りつけられることによってではなく、自らプライドも面子も命もすべて私たちのためにかなぐり捨てて、十字架に架かってくださった、主イエス・キリストの深い本気の愛に触れたときにこそ、私たちは、その愛で、かたくななこの心を溶かされて、固く凝り固まったプライドから自由に解放されることができます。愛とは、溶かす力です。
主イエスは復活された後、弟子のペトロに、「あなたは私を愛するか」と、三度尋ねられました。ペトロは「はい、主よ。」と答えました。私たちは今朝、この主イエス・キリストに、何と答えるでしょうか?
金慧眞先生は、そのペトロの受け答えを、自分の答えとして主イエスに「はい、主よ」と返したことによって、「私の羊を飼いなさい」という、牧師の働きへの使命をいただいたと証しておられましたけれども、それでこのペトロの話は終わるのではなくて、この話にはさらに先があります。主イエスは、ヨハネによる福音書21章で、こう答えられました。「「21:18
はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」21:19 ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた。」
「はい。主よ。」と答えることで、ペトロは、自分の行きたくないところへ連れていかれて、そこで死ぬのです。しかしそこまで込みで、主イエスはペトロに、わたしに従いなさい、と言われました。主イエスに従う時には、自分の面子もプライドも砕かれ、自分の好きなところで生き、そして死ぬことさえもかないません。けれども主イエスに従って、主イエスの愛によって赦されて、自由な心にされて、その先で、自分のやりたいように、自分の思うとおりに、ということを超えた、主イエスの導きによって生かされて、そこで死ねるのなら、それこそが、何より最高なんじゃないでしょうか。