2021418日 ルカによる福音書20919節 「生きている石」

 ルカによる福音書も20章に入り、この後23章に描かれている主イエスの十字架の死に至る道のりが、最後の一週間を切り、最終段階を迎えています。

 その中で、主イエス自らが、今朝の御言葉で、民衆に対して口を開かれます。そしてその内容は、先週の権威についての問答の最後で主イエスが、「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい」と言われた、その言葉に続いています。前回主イエスは、祭司長や律法学者たちによって「我々に言いなさい。何の権威でこのようなことをしているのか。その権威を与えたのはだれか」と問われて、それにはお答えにならなかったのですが、今朝の御言葉で、主イエスはしっかりそれに答えておられます。

 そういう意味では、今朝の御言葉でも、何の権威か?誰からの権威なのか?という問題は継続しています。

 そして、今朝のこの御言葉は、中でも特に主イエスが語っておられるこのたとえ話は、これが聖書なのかと思ってしまうほどの、本当に気分を害するような、一見、何の美しさも、感動も伴わないような、ひどい話です。聖書のタイトルのところには、「ぶどう園の農夫のたとえ」と太字で書かれていますが、「邪悪な農場労働者の話」と題しているほかの聖書もあります。邪悪な農場労働者とはまさにその通りで、それはこの話の結論部分の言葉を見れば、それがすぐに分かります。

 たとえ話の最後の1516節にはこうあります。20:15 そして、息子をぶどう園の外にほうり出して、殺してしまった。さて、ぶどう園の主人は農夫たちをどうするだろうか。

20:16 戻って来て、この農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない。」彼らはこれを聞いて、「そんなことがあってはなりません」と言った。」

 これは、話を聞いた人が思わず、そんなことがあってはなりません、と叫んでしまうようん、ありえない、あってはならないようなひどい話なのです。最後、この邪悪な農夫たちは、主人に殺されるべきだ、殺されて当然だ、それぐらいのひどいことを農夫たちは繰り返します。これはそういう聞くに堪えないような話であるわけです。

 話の筋は、既に先ほどの朗読で分かっていただいていると思いますが、まず主人がぶどう園を作りました。そしてそのぶどう園を農夫たちに貸して旅に出た。そしてブドウの収穫の時期になって、主人が収穫を納めさせるために、僕に収穫を取りに農夫たちのもとに行かせた。しかし農夫たちは、その僕を袋叩きにして、何も持たせないで追い返した。そして、この同じことを、三人の主人からの僕に対して、農夫たちが三回繰り返して行った。そこで、13節から15節を朗読します。20:13 そこで、ぶどう園の主人は言った。『どうしようか。わたしの愛する息子を送ってみよう。この子ならたぶん敬ってくれるだろう。』20:14 農夫たちは息子を見て、互いに論じ合った。『これは跡取りだ。殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。』20:15 そして、息子をぶどう園の外にほうり出して、殺してしまった。さて、ぶどう園の主人は農夫たちをどうするだろうか。」それはもちろん、農夫たちは殺されて余りあるぐらいのひどいことを繰り返しましたので、弁明の余地はありません。人々は、こんなひどい話はあってはなりませんと答えましたし、並行箇所のマタイによる福音書がこの話を書き記すには、マタイは、今朝の16節の言葉を、このルカによる福音書のように主イエスに語らせるのではなく、祭司長やファリサイ派の人々の口を通して、「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ぶどう園は、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに貸すに違いない」と語らせています。

 最後には、主人に殺されて当然の背徳的な罪を重ねる邪悪な農夫のたとえ話。なんでしょうか?この話は。

 

 この話を主イエスがされたあと、主イエスは、祭司長や律法学者たちを見つめて、1718節を語られました。そうすると19節、「20:19 そのとき、律法学者たちや祭司長たちは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいた」とあります。

 つまり、殺されて余りあるぐらい悪いことをしている邪悪な農夫たちとは、この時主イエスの目の前にいた、祭司長や律法学者たちのことだったのです。まさかそんな風には思っていなかった彼らは、しかしこの話を主イエスにあてつけられて激怒して、しかしたとえ話そのままに、本当に主イエスを殺そうとし、そして事実、このあと殺したのです。

 

 よってこのたとえ話は比喩で、そこには主イエスを実際に取り囲んだ現実が表されています。主人とはもちろん神様のことです。そしてぶどう園とは何か?それは、話の最初に、「ある人がぶどう園を作り」とありますので、それは、主人である神様が作り、創造されたこの世界のことです。そして神様は、創造された世界を、私たち人間に委ねられたのです。農夫たちとは、直接はユダヤ人である律法学者たちのことですが、しかしもっと広く考えるならば、彼らに代表される、私たち人類の一人一人であるとも言えます。人間に貸し出されて、人間に管理と収穫とが委ねられたこの世界を、神様が創造された、神様からの借り物であるこの世界を、人間は自分たちのものにしたいと、独り占めにしたいと考えるのです。

 その人間の欲が、主人の息子を殺す際の農夫たちの言葉に現れ出ています。14節です。20:14 農夫たちは息子を見て、互いに論じ合った。『これは跡取りだ。殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。』」

 跡取りを殺せば、ぶどう園を我が物として横領できるとは、なんと乱暴で浅はかな論理なのかと思いますけれども、ぶどうの木は、当時も今も、身を実らせるようになるためには最低5年かかります。そしてぶどうの収穫は年に一回ですので、このたとえ話の状況をリアルに想定するならば、主人はぶどう園を作ってから、最低5年間は帰ってきていない。そしてそのあと、毎年実が実って僕を年に一回送ったが、3年連続して僕が追い返された。ですので最低8年とか、もしくは10年とか、ひと時代の間、主人はその姿を現していないのです。その間農夫は、自分たちが育て管理しているぶどう園を、我が物に独占したくなり、またそうすべきだと、そうするにはどのようにしたらよいのかと考えた。そこで農夫たちは、一向に姿を現さない主人のことを、もう死んだのだと決めつけたのです。神様も、ある部分そうです。私たちのこの目には見えない。でも神様は私たち人間のことをいつも思ってくださっていて、僕、御自分の代理者たちを、聖書で言えば神様の言葉を預かって人々に届ける仲介役、預言者たちを送ってくださる。しかし、旧約聖書を少しでも読めばすぐに分かることですが、人々は神様の言葉を伝える預言者たちの言うことを聞かずに、彼らを足蹴にしてきた。そしてその預言者たちを使わされる神様のことを無い者と見なすようになった。農夫たちは、主人の姿が見えないということをもって、主人は死んだと決めつけて、最後に主人の愛する息子が送られてきた時、そうだ、この息子を殺してしまえば、財産相続する跡取りが誰もいなくなる。そうすればこのぶどう園は丸ごと我々の手に入る。そういう論理で、息子を外に放り出して、殺してしまう。本当にひどい話、ひどい裏切りですし、この邪悪な農夫たちに対して、悪びれずにずっとそういう農夫たちを信用して、ぶどう園を預け続け、そこに大事な、愛する一人息子をも送り出してくれる主人の側も、そちらはそちらで、何とも言えない、無垢で、ストレートな愛を、実直に与え続ける。この主人の思いついても、人間の理解を超えているなと思わせるものがあります。

 本当にこの農夫たちは、神の愛を裏切り続けるこの私たち人間は、ぶどう園の主人に、息子の仇として、殺されて当然のことをしているわけです。ここに言われているように、こんなことはあってはいけない訳ですけれども、しかし事実、これが起こったわけです。

 

 主イエスは、このあと数日で、この主人の跡取り息子が園(えん)の外で殺されたようにして、エルサレムの町のはずれのゴルゴダの丘で十字架に架けられ殺されるわけです。そのことを分かっておられながら、一体どういう気持ちで、どういう声で、どういう眼差しをされながら、この話を語られたのだろうかと、考えてしまいます。

 

 こんなひどい話はないですよと、これを読んだら誰でもそう思いますけれども、これは私たち人間が、神様と主イエス・キリストに対してしたことであり、これは、根本的には、わたしという人間の、私たち一人一人の神様のとの、実際の、関わりの物語なのです。

 神様に作られたこの世界の中で、自分は、本当に何を見て生きてきたのだろう?神様からの祝福と収穫を沢山好みに受けて、この腹にそれを味わって、楽しみ、命を謳歌しながら、自分は何に熱意と力を注いできたのだろう?預言者たちの言葉を、御言葉を語り伝える人たちの言葉を、私はどれだけ大事に聞いてきただろうか?クリスマスの時だってそうです。世界中で祝われるクリスマス。おぼろげながらでも、その意味を私たちは皆知っていた。イエス・キリストを、神の跡取りだと、神の御子だと、世の救い主としてクリスマスに生まれた方だと聞いていながら、そしてそのクリスマスを子どもの時からずっと楽しみながら、そのクリスマスの楽しいところだけ、甘い汁だけ自分の懐にいただいて、本当に主イエス・キリストをこの世に送ってくださった神様のことを見ていただろうか?その神様の気持ちをいくらかでも考えたことがあっただろうか?その真実の意味を知ろうとしていないだけで、十字架を見たことのない人は一人もいません。つまりキリストという名前を知っていながら、自分のもとに来てくださった主イエス・キリストを、私たちは外に締め出すということを、繰り返してきたのではなかったか?今クリスチャンになっている私たち一人一人についても、それは言えることです。本当に私たちのこれまでの態度が、生き方が、この農夫たちとは、ぜんぜん違いますよと、そんな風に言えるようなものだっただろうか?

 ルカによる福音書は、16節の「そんなことがあってはなりません」という言葉を、祭司長や律法学者たちにではなく、民衆に語らせました。そしてそもそも主イエスは、このたとえを民衆に語られました。民衆とは、ピープルという言葉、つまりそれは時代を超えた、人間一般を指す言葉、すなわちこれは、私たちへの言葉です。私たち人間は、「そんなことがあってはなりません」と言いながら、自らそんなひどいことをしてきた私たちなのです。

 

 主イエスは、どんな表情でそれをお語りになっていたのか、私にはとても想像がつきませんが、主人の愛する息子がぶどう園に送られて、しかし農夫たちによって園(えん)の外に放り出されて、殺されるという、自分の身に起こる絶望的な未来を主イエスは語られながら、その話だけで終わりにはされず、さらに、詩編118編に出てくる、隅の親石の話を、それに加えて語ってくださいました。そしてそこに、希望があります。

『家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった。』これは、絶望が希望に逆転するという話です。

 家を建てる時に、不格好な石の存在は邪魔なだけです。ですからそういう石は力いっぱい外に放り出されて、捨てられる。軒先にずっと積んである粗大ゴミをトラックに来てもらって一気に捨てるとすっきりするように、自分が建てようと計画している立派な家にとって、それに合わない、不格好で目障りな石は邪魔でしょうがないので、遠くに捨てる。けれどもその石が、端っこに捨てられながらも実はその場所で、それなしには建物全体が崩れてしまうほどの重要な親石要石になる。この言葉の引用元の詩編118編には、「家を建てる者の退けた石が/隅の親石となった。」という言葉に続いて、「これは主の御業/わたしたちの目には驚くべきこと。」という、「この主なる神の御業は、私たちにとって尋常ではない。」という言葉が加えて語られています。つまり思ってもみないことが起こる。

 つまり、捨てはずの石が、死んだはずの石が、生き返る。捨てられて、廃棄された石の墓場で蘇る。その墓場こそが、新しい家の土台にとなって、私たちの想像を超えた新しい家が、その石を礎として建て上がる。つまり、農夫たちによって外に捨てられて殺されたはずの主人の息子は、十字架で死なれる主イエス・キリストは、それで終わらず、むしろそこから新しい始まりが、新しい命が、キリストが殺された十字架から立ち上がる。そしてそこが新しい礎石となって、そこに新しく建てられる家を支える。新しく建てられる家。新約聖書が家という時、それは神の家、教会を意味する。

 主イエスはそこまで見通して、十字架に架かりに行ってくださる。自ら十字架を背負って、エルサレムの町の外の、ゴルゴダの丘を目指してくださる。死んで、殺され、捨てられて、しかしそこから蘇り、邪悪な農夫たちに殺されても、さらにその上で、殺し返さず、下から彼らを支えて、罪の赦しのための十字架で流されるキリストの血という、ぶどう園の収穫に与らせてくださる。主イエスは、邪悪な農夫たちを、しかし彼らのことをも受け入れて、神の子どもとしてくださり、私たちをも跡取りとしてくださり、神様からの永遠の命と、そのすべての相続財産を、本当に与えてくださる。主イエス・キリストは、神の権威を帯びた方として、その力を、こういう救いを打ち立てるために使ってくださる。誰の権威で、だれの責任で、邪悪で殺されるべき、主イエスを殺した農夫たちが、それでも赦され救われるなどという、こんな尋常ではないことを主イエスはできるのか?神の権威で、神の赦しと命という相続財産を自由にできる、神の跡取りとしての、神の御子の権威で、神の愛をどこまでも貫き通すという愛の権威と力で、主イエスは、この私たちをも救ってくださいます。

 なぜキリストという石は、廃棄を余儀なくされるような、人から捨てられてしまうような石なのか、それはきっと不格好だから、傷ついていたり、割れているからなのではないかと思いますが、しかしその石が親石となって、そこから私たちを要となって支えてくれるということは、その不格好さや歪みは、歪んだこの私たちにぴったりフィットして、こういう私たちでも、しっかりと支えてくだ去るための、その傷なのだろうと思います。石のように固く強く、しかし生き生きとした復活の命で、私たちそれぞれにぴったりと合わせて、親石となって支えてくださる主イエス・キリスト。この生きた礎石の上に、私たち皆は、今朝も立っています。