2021年4月25日 ルカによる福音書20章20~26節 「神の所有の中で」
今、コロナウィルスの感染状況について、全国でも指折りの深刻な状況の中に今の私たちは置かれています。その不安の中に置かれている私たちに与えられたのが今朝のこの御言葉です。そこにはどんな、神様の意図があるのでしょうか?
外に自由に出られない中で、外出が自粛されて、心身共に圧迫されている中で、無駄に思えるほど毎日天気が良く、季節も良いわけです。そういう緊急事態宣言が出たこの晴れた朝に、詩編95編3節から6節は語ります。
「95:3 主は大いなる神/すべての神を超えて大いなる王。95:4 深い地の底も御手の内にあり/山々の頂も主のもの。95:5 海も主のもの、それを造られたのは主。陸もまた、御手によって形づくられた。95:6 わたしたちを造られた方/主の御前にひざまずこう。共にひれ伏し、伏し拝もう。」
深い地の底も、山々の頂も、海も、陸も、そしてこの私たち一人一人も、それを造られたのは主。その、わたしたちを造られた方/主の御前にひざまずこう。共にひれ伏し、伏し拝もう。
心がギュッと詰まってしまって、心が狭く、鬱屈してしまっている私たちに、主イエスは大丈夫だと語りかけて、そして、なぜ私たちが大丈夫なのかを、語り聞かせてくださいます。
今朝の御言葉において主イエスは、二、三日で十字架に架けられるという、大変切迫した中をこの時歩んでおられます。主イエスを殺そうと図る者たちの圧力は極限まで高まっていますが、だからと言って主イエスはすぐその場で、十字架に架からずに殺されてしまうことがあってはならないことを御自分で認識しておられます。その中で、主イエスを追い込むために、刺し違えるような強度で、敵対者たちは主イエスに迫りました。そして、ここで彼らが利用しようとしたのは、神聖ローマ帝国皇帝の力です。彼らは主イエスを狭い路地に追い込むようにして罠にはめて、具体的には彼らがその属国とされていて、辛酸を舐めさせられていたローマ帝国に、帝国への反逆者として主イエスを吊し上げようしました。これをもって主イエスを罠にはめんとしていたユダヤ教当局者たちは、もちろん彼らの国にのさばるローマ帝国の存在を快く思っていませんでしたが、しかしそこさえも利用しようとするほど、本当に彼らも、もうなりふり構ってはおられないと、彼らの側の党派意識や敵対関係、それに伴うプライドなども全て投げ打って、社会全体で主イエスを殺しに行くのです。最後にはそれに民衆も加わるわけですが、主イエスの架かった十字架とはそのように、一部の人間が画策してやったことではなくて、聖書はそれを、全人類が画策した、全人類の殺意が結集してなされたこととして描いています。
その際に、主イエスに犯罪や過失や悪いところは一つも見つからない。人々からの人気もある。まともに論争をしても勝てない。そうなると、もう主イエスのその正しさ、宗教的熱心とその完全なる信仰を利用して、その部分で罠に陥れるという方法しかない訳です。そして敵対者たちは、絶対に違うとは言わせないような質問を用意して、それによって皇帝への反逆者としての言質を取って、主イエスを吊し上げようとした。政治犯、国家反逆的なテロリストに主イエスを仕立て上げる。今日でも起こりそうな話です。そして、その計画を、彼らは当時の国家規模の陰謀によって推し進めた。その罠が、今朝の20節から22節のようなかたちを具体的にとっているわけです。
「20:20 そこで、機会をねらっていた彼らは、正しい人を装う回し者を遣わし、イエスの言葉じりをとらえ、総督の支配と権力にイエスを渡そうとした。20:21 回し者らはイエスに尋ねた。「先生、わたしたちは、あなたがおっしゃることも、教えてくださることも正しく、また、えこひいきなしに、真理に基づいて神の道を教えておられることを知っています。20:22 ところで、わたしたちが皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」
税金という言葉が22節にあり、ここでは当然、皇帝への納税ということが問題になっているのですが、しかし、同じこのエピソードを語り伝える、マタイとマルコの二つの福音書が、ケンソスという、まさに税金というギリシャ語をここに当てて、人頭税であった当時の状況に合う、課税者に対して個々人が個人的に支払う税金ということを語っているのに対して、しかしこのルカによる福音書は、フォロスという、税金という言葉ではなく、貢物、いただいていたものに対して感謝の思いで返礼する返礼品、そしてこれは個人の納税という言葉ではなくて、国と国とが互いに支払いをするというような、もっと大きく広い範囲をカバーする言葉が使われています。
そして、さらに重要なのは、その税金という言葉の前にある、「わたしたち」という言葉です。この回し者たちは、とても主イエスの教えに心酔しているような、さも主イエスの親衛隊のような態度で、あなたの語ることは本当に真理だ、素晴らしい、これこそが神の道だと、主イエスを絶賛しながら近づいてくるわけです。そしてそういう、神に従い、十戒の第一戒にももちろん完全に合致するかたちで、聖書の神様のみを神として生きている、この「わたしたち」が、「自らを神と称して、イスラエルの神を否定する皇帝に対して、貢物を喜んで捧げようなとどは、絶対に思いませんよね?」と、「そんなことがモーセが語る律法に、つまりはその第一戒に、適うはずがありませんよね?」と、誘導尋問してくるのです。
主イエスはここで追い詰められて、コーナーに追い込まれて、動けなくなるわけです。のんきな立ち話ではなく、国家レベルの圧力が、一人のこの主イエスにのしかかっている場面です。実際にはこの数日後に起こるゲッセマネの園での逮捕と強制連行の場面が、もはや、このやり取りの直後にでも、すぐに起こることとして段取りされていたわけです。
次元の違う話ではありますけれども、東京、大阪、京都、兵庫の4都道府県だけが今日から緊急事態宣言の対象になり、今のこの時も、多くの会員の方々が家を出て教会に来ることについての制限を受けて、オンラインで礼拝に参加してくださっています。少なくともこれから2週間は、私たちから日常が奪われて、緊急事態の中に皆が入れられ、鬱屈した心身に響く窮屈さの中で、私たちは呼吸をしなければならなくなりました。追い込まれる、圧がかかる、マウントを取られても、そのプレッシャーの中を、それを押し返して前に進まなければならない。そんな場面が、私たちの日々の生活の中にも多々起こります。
次元は違いますけれども、ある種、そういう追い込まれた状況の中で、主イエスはどうされたのか?23節から25節です。「20:23 イエスは彼らのたくらみを見抜いて言われた。20:24 「デナリオン銀貨を見せなさい。そこには、だれの肖像と銘があるか。」彼らが「皇帝のものです」と言うと、20:25 イエスは言われた。「それならば、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」
デナリオン銀貨は、当時の一日分の賃金であり、最も流通している通貨でしたから、誰のポケットにも入っていたと思われます。「デナリオン銀貨を見せなさい。そこには、だれの肖像と銘があるか。」と聞かれたら、パッとポケットから取り出して、「皇帝のものです」と彼らは何の気なしに答えた。そこで主イエスは、「それならば、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」と言われた。
先程の税金と訳されていたフォロスという、貢物を意味する言葉の中にも、返礼品という意味が込められていました。皇帝の横顔が刻み込まれている銀貨は、皇帝に返せばいい。それは具体的には銀貨を皇帝に納税することになりますが、皇帝への屈服や、神様を裏切って皇帝を神として認めるということとは違う。そして主イエスはさらに輪をかけて「神のものは神に返しなさい。」と言われました。
皇帝の顔が彫り込まれている銀貨が皇帝のものであることは分かります。じゃあ、神に返すべき、神のものとは何か?先程の詩編は、山々も、海も、陸も、この私たちも主のもの。と歌っていました。
先程の24節で主イエスは、「デナリオン銀貨には、だれの肖像と銘があるか」と問われましたけれども、その肖像と訳されている言葉にも、とてもよく考え抜かれた言葉が選ばれています。それは、エイコナという、イコン、アイコンという言葉のもとになった言葉で、起源や由来という、本質に遡る意味を持つ、英語では、イメージという、残像の像、姿かたち、という言葉です。
つまり主イエスは、神の造られた、神様の所有物の中には、神様に由来する神の姿が徴付けされて、彫り込まれていると、そういう話をされています。
そしてこのエイコナという言葉は、ギリシャ語版の旧約聖書の、天地創造の場面、創世記1章27節で、神様がご自分にかたどって人を創造された、というあの言葉の、「かたどって」というところに用いられています。
主イエスは、この追い込まれた場面で、ただ単に、機転や頓智を利かせられたのではなかった。皇帝のものは皇帝にと言われながら、もっと本質的で大事なこととして、神のものを神に返しなさいと言われました。返しなさいという言葉も、ただ返すというリターンという言葉ではないです。これは、それとは別の、献げる、上納するという言葉で、しかも命令形で語られています。つまり、「銀貨は皇帝に、そして、自分自身については、それを神様に捧げなさい」と、主イエスは言っておられるのです。なぜなら、あなたたちには、神様の姿が刻み込まれているからです。
この種の、主イエスの命令形の言葉を、「主イエスが実行を可能にしてくださる、決意の命令形」と呼びたいと思います。主イエスはたくさんの命令の言葉を語られます。隣人を自分のように愛しなさい。七の七十倍までも赦しなさい。わたしに従いなさい。神を信じなさい。そして今朝は、自分自身を神様に返し、捧げなさい。主イエスは私たちに、無理なことは、決して命令されません。そして主イエスは、私たちに命令するからには、それを実行する力をも、命令に従おうとする私たちに、合わせて与えてくださいます。ですから、主イエスの命令は、達成不可能なのではなく、主イエスの責任ある力添えによってそれは必ず、達成可能なものになります。そうであるならば、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい、というこの命令は、実はそれは同時に、私たちを神のものとして必ず取り返すという、主イエスの決意の表明でもあるのです。
神のかたち、その姿を内側に宿すものとして創造された人間は、罪によってその神のかたちを歪められてしまい、かつては当たり前にできて当然のはずだった、隣人を愛し、赦すこと、神様を愛し、信じ、従うことができなくなってしまいました。
しかし、だからこそ主イエスは、それを取り戻しに来てくださったのです。このすぐ後に主イエスは、十字架に架かられます。それは何のためか?たとえばガラテヤの信徒への手紙5章24節はこう語ります。「キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。」
十字架に架かることで、主イエスは、肉を、つまり与えられた神のかたちに相応しく生きることができないという、私たちの罪を、十字架に張り付けにしてくださり、その息の根を止めてくださった。そして私たちは、そのそうやって、主イエスの十字架によって、神様のものに取り戻されるのです。
先程の創世記とは反対の、聖書の一番最後のヨハネの黙示録の22章には、「神の僕たちは神を礼拝し、御顔を仰ぎ見る。彼らの額には、神の名が記されている。」とあります。私はこれを読むと、息子が小学校に入学する時、鉛筆のその一本一本に至るまで、学校に持っていくあらゆる持ち物に名前が書かれたシールを貼ったのを思い出します。
そして神様はそんな風にして、神の僕たち、神を礼拝する者たちの額に、私たち自身の名前ではなく、これは神のものだという意味で、神様の名前を記していてくださっている。目には見えませんけれども、もうそのシールは付いている。主イエスの十字架によって罪を洗い流された者が受ける洗礼を受けることを、別名sealingと呼んで、それは神様の所有になったというしるしのシールを貼られることなのだと表現することもあります。
そして神様は、聖書の終わりの言葉が約束するように、自分のものとしてくださった私たちを、見失わず、失くしてしまうようなことはされず、永遠に、終わりまで、決して手放さないで、持っていてくださいます。
コロナウィルス禍の中で家に引き籠る私たちの家の屋根を外して、私たちの心を大空に向けて、神様のおられる天に高く引き上げるようなメッセージではないでしょうか。私たちは、コロナウィルス禍で、一人、家の中で、孤独でいるようでいて、実はそうではない。神様に所有されている。私たちは根本的に、人間の顔が記された紙幣に支配されて、だだそれに翻弄されて生きるのではない。この私たちは神の所有の中にあり、神は、ほかのものに翻弄されて生きる私たちを取り返し、独り子主イエスを十字架に架けても惜しくないほどに私たちを愛して、宝物のように、永遠に大切にしてくださる。主イエス・キリストという方と、特にその十字架が、その神様と私たちとを固く結び付ける、その結び目です。
私たちは孤独ではない。狭いところに押し込められているのではない。広く大きな神様に、主イエス・キリストによって、今、強く、結び付けられています。