ルカによる福音書202740節 「人は神によって生きる」

 昨日、岡田廣兄の納骨式のために、舞子墓園を訪れました。舞子墓園にある教会の共同墓地は、なかなかの大きな共同墓地で、今月伝道開始100年目を迎えるこの板宿教会の代々の牧師先生は当然のこと、神戸からスタートしたこの改革派の創立に関わった名だたる先生方や、私たちの家族、祖先。私の義理の祖父も入っていますし、また、つい数年前までこの席に座っていた、まだ記憶に新しい多くの方々に至るまで、400人以上に及ぶ方々が、その墓碑に名を連ねています。ただ墓碑に連なっている色々な名前を眺めているだけで、その名前の中に詰まった、大河のように豊かな時の流れと、歴史を導く神様の力強さと、その導きの確かさ、細やかさ中に没入することができる。そこはそのような、稀に見る共同墓地です。

 

 今朝の御言葉は、復活について主イエスが語られた御言葉なのですけれども、やはりその墓地の前に立つ度に、死後のことについて、復活のことについて、思い至らせられるわけです。もう生きているこの私たちよりも大勢の人々がその一つの墓に入っていて、この教会よりもずっと大きな、召された人々による教会が、その共同墓地という場所に、ちゃんと成立している。今私たちはコロナウィルスによって、右往左往して、また大きな制限制約を受けているわけですけれども、しかし、コロナウィルスの力にも全く動じない世界がその共同墓地のその場所には見えるのです。その先に召された方々が形作っている教会の方が、メンバーとしてもすごい豪華メンバーが勢ぞろいしていますし、そちらの方が揺ぎ無い、どんとした構えの、確固たる教会であるように思えます。

そして、それは実際にそうなのです。この私たちが今生きている世界よりも、もっと広い世界が、あの墓地の、あの石のふたを開けたら出てくる、丸くて狭い骨壺の入り口の奥にはある。この教会よりももっと大きな教会が、板宿の教会と同じ100年というどころではない、何百年何千年と続く巨大な教会に通じつながる大きな入り口が、そこにはあるのです。

 

 今朝は、いきなり結論から語らせていただきたいのですが、私が申し上げた、墓穴の入り口の奥にある、もっと広く大きく開かれた世界のことを、今朝の御言葉の後半部分の主イエスも語っておられます。3738節です。20:37 死者が復活することは、モーセも『柴』の個所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している。20:38 神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。

 38節の最後の言葉に、「すべての人は、神によって生きている」という言葉があり、今朝の説教題はこの御言葉から取ったものですが、しかし、この部分の翻訳について、ほかのほとんどの聖書は、「神によって」生きるとは語らずに、すべての人は、「神に対して」生きると訳しています。そして、それが意味することとは、モーセも、アブラハムも、イサクも、ヤコブも、先に世を去っていった全ての人は、人に対しては、そしてこの世界に対しては、墓に納骨された、死者と見なされていますが、しかし神に対しては、神のところでは、皆が、今、生きている。皆、先に墓に入ったすべての人は、神に対しては、つまり、あちらで、神様の所で、神様と触れ合って、そこに一致し、神様に引っ付いた所でもって、今、生きているということです。

 そして神様とは、そういう墓の奥で、今生きているたくさんの人々と、一緒に生きておられる、生きた方なのである、と主イエスは言われるのです。墓穴の先で今生きている、多くの人々と一緒になって、今そこで生きておられるのが、私たちのこの神様なのだ。つまり主イエスは、そういう意味での38節、「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。」と、すごく生き生きとしていて、命に溢れた、明るいことを、主イエスはこの御言葉で、断固として言い切ってくださっているのです。

 

 墓穴の奥に広がる、とっても明るく広い場所がある。そこで神様の命に触れ合うことで、その尽きない命に触発されるようにして、その命と一体化して、今、すべての人が、みずみずしく生きている。そういう明るく素晴らしい、大きな命に溢れた教会が、そこにはモーセもアブラハムもイサクもヤコブたちも、舞子墓園の先輩方と共に、そこで今を生きている、生き教会がある。そして昨日、岡田廣さんの遺骨は、20年前に先にそこに行かれた奥様に続いて、正式にそちらの教会に仲間入りをされたのです。

 

 突飛な話に聞こえるでしょうか?そう聞こえると思います。この世の中の常識からすれば。そして、そういうこの世の中の常識を持ち出して、この話を突拍子もない話だとして一笑に付そうとしていたのが、今朝の御言葉の始めに出てくる、サドカイ派の人々でした。

 

 27節にこうあります。20:27 さて、復活があることを否定するサドカイ派の人々が何人か近寄って来て、イエスに尋ねた。」

 27節で、最初からはっきりと、復活があることを否定するサドカイ派の人々、と言われています。サドカイ派というのは、有名なファリサイ派と並ぶ、ユダヤ教の中の一大党派でした。サドカイというその名前は、ソロモン王に祭司として登用された祭司ツァドクから来ていると考えられ、その名前の由来が示す通り、彼らは祭司の中に、そして貴族の中に多かったグループだそうです。ということはつまり、当時の特権階級です。ファリサイ派は、民衆の中から起こった宗教運動をきっかけに形成されましたが、このサドカイ派は、多くが支配者階級に属していましたから、宗教団体というよりも、政治団体に近く、ファリサイ派が熱心に活動したように、社会を変えていくとか、宗教的熱心さで生きるということには、あまり関心を示しませんでした。むしろ彼らは、自分たちにとっての居心地のよい当時の社会をそのまま維持するために、支配国であるローマ帝国のご機嫌取りを進んでするような一派でした。そして彼らは教養のあるインテリで、合理的に物事を判断する人たち。そして世俗的でもありますから、見えるものしか信じないというような、とても現実的で醒めたものの見方をする、そういう人々であったようです。実際に目で見て、触れるものしか信じないような彼らは、当然のこととして復活を信じなかった。また聖書が語る最後の審判や、聖霊なる、霊なる神の存在も、彼らは信じませんでした。

 その彼らが、主イエスに向かって質問するのですが、この質問は、主イエスを失脚させるというよりも、笑いの者にするための質問でした。支配階級に身を置いていた彼らにとっても、主イエスの存在は邪魔だったようです。よって彼らは主イエスをお笑いぐさにして、この者の言葉は聞くに値しないと、群集に示そうとしていました。

 

 そこで彼らが主イエスに質問をしたのですが、これが本当にくだらない、そして嫌味臭い質問なのです。一度お読みいただければ、この質問にかもし出されている彼らの陰気さ、意地の悪さが読み取れると思います。7人兄弟がいて、長男から順々に死んでいくのです。そして当時のレヴィラート婚という申命記25章やルツ記に記されている、子孫を絶やさないための制度に従って、長男の妻が、夫の死んでいくにしたがって、次男、三男と順々にその兄弟の妻として迎えられ、7回結婚するのです。そして最後に7人全員が死んで、その妻も死んだとして、復活後はその妻は誰の夫になっているのか?という、これはまったくの無理な作り話ででっち上げた、悪い意味でのインテリがひねり出すような質問です。彼らは、きっと答えに窮するであろう主イエスに、だから復活や死後の世界などということを信じる者は、迷信深くて、きな臭くて、どうにも困りものなのだと、うんざりして見せようとしたのです。

 

彼らの関心は、自分の正しさの誇示であり、いかに自分の地位や身分や富を守るかということであって、神様というものは、彼らにとっては、そういう自分たちの生活の補強手段、補助輪のようなものでした。自分の願いに役立つ信仰なら信じてもいいし、自分に利益をもたらす神様の教えなら聞いてもいいけれども、自分の生活や存在が問い直されたり、それを根底から揺さぶるようなことになるのだったら、そんな神様はご免被ると思っている。これがサドカイ派の人々のホントのところです。

 

しかし私たちは、こういうサドカイ派の人々のことを、なんとひどい者たちかと、切って捨てることはできないと思います。なぜなら、この私たちに皆の中にも、このサドカイがいるからです。では私たちは、彼らとは違って本当に、復活を信じているのか?火葬されて煙になった体が、元通りになるのか?舞子墓園の墓碑の下に開けられた何百人もの遺骨は、ちゃんとまた元通りにそれぞれの復活の体を本当に形成するのか?傷やシミも痛みも涙もない、罪なき良き被造物して復活する私とは、どんな顔をした、何歳の時の私なのか?サドカイ派とそれほど変わらないレベルで、私たちも妄想をしますし、本屋に行けば、そういう興味本位の知的遊戯を羽ばたかせるような本が平積みされています。つまり、私たちや現代人の神様を見る目も、サドカイ派のそれと、そう変わっていないのです。

 

けれども聖書は、私たちがこの小さな頭であれこれ考えるようなことのすべてには答えません。そしてその代わりに、私たちの興味に合わせて語られるようなことでなく、神様が復活について定めておられる、私たちと神様の永遠の命との、私たちのアイデアを超えた結合について、命の神が、死を超えて私たちと共にいてくださるということについて、神様がこの私たちのこの魂も、そしてこの体についても、その両方を愛してくださり大切に扱いながら、良き、新しい人として作り変え、復活させてくださるということについて、主イエスは聖書を通して語ってくださっているのです。

 

つまり、復活ということと、死後の命ということについては、それは、私たちがそれについてあれこれ考えて、その手筈を整えるような、私たちの領域に関することではなくて、それは、神様が手筈を整えてくださる、神様の領域と責任と、神様の力の側に、完全に属することなのです。

 

サドカイ派の人々がひねり出した、荒唐無稽なレヴィラート婚の話ですが、レヴィラート婚とはそもそも、子孫を絶やさないための、その主の民であるアブラハムからのユダヤ人の血縁を断絶させないための、命をつなぐための制度でした。しかし主イエスは、このサドカイ派の、7連続レヴィラート婚は復活の時にはどうなるのかという質問に対して、復活後の人間は、レヴィラート婚でも何でも、この世での、あくせく命をもがき繋ぐようなことをする必要はないのだと。復活後では、誰の妻、誰の子、だから誰に継がせて誰に命を繋ぐというような、そういう小さな次元のことは問題なくなると。なぜなら、そこでは、36節で「この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである」と言われているように、すべてを超越して大きく包み込むような、神様が与えてくださる溢れる命があるのだからと、主イエスは答えてくだいました。

 

今朝ここには、二つの道が示されています。一つは、私たちの想像を超えた主イエスのおっしゃられる、死後もなお豊かに溢れる復活の命を信じて生き、また死ぬことによって、サドカイ派や、世の中の常識によって、愚かであると馬鹿にされるか。

それとも、二つ目の道として、サドカイ派や世の中の考え方に沿って、神様は認めるにしても、自分の経験則の中で把握でき、自分にとってメリットと思われる部分でだけ神様と付き合うこと。そしてそれによって、処女降誕や、復活や、永遠の命など、自分の論理と想像を超えた神様の働きについては認めず、同時にそこにある恵みと命を受け取り損ない、さらには、処女降誕や、奇跡、死からの復活、永遠の命に生きること、というそのすべてを御自分の身をもって実現し、示してくださった主イエス・キリストその方と、その方を目の前に見ながらも、しかしサドカイ派の人々のように、主イエスとすれ違ってしまうのか。

 

コロナウィルス禍による礼拝時間短縮の影響で、最近は告白していませんが、私たちはずっと使徒信条を礼拝で告白してきました。使徒信条の最後に置かれた一文が、今朝のこの御言葉に対する、私たちの姿勢です。

「我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、身体のよみがへり、永遠の生命を信ず。アーメン」

すべての人は、神によって生きている。すべての人は、神に対して生きている。墓は、口を開けて、私たちを暗闇にのみ込むのではない。共同墓地の墓碑には、『今から後、主にあって死ぬ死人はさいわいである』との御言葉が刻まれています。神によって、神に対して生きる、そして死ぬときも神に対して死んでいく、その人たちはすべて、神によって生きるのです。今も生きる私たちの神が、この私たちのこの命を、永遠に消えない光に変えてくださいます。