2021年5月16日 ルカによる福音書20章41~44節 「考えたこともない救い」
今私たちは、ルカによる福音書の御言葉を、毎週少しづつ順番に読み進んでいますが、その読み進む順番や、聖書の御言葉の区切り方には、何ら作為的なものはないのですが、しかし、そうやって御言葉を順々に読んでいく中で、今週は本当にこの御言葉がぴったりだった。ここしかないという具合でぴったりと御言葉が私たちそれぞれの状況に当てはまるということが、しばしば起こります。
そして、今朝与えられましたこの御言葉は、まさにそのような御言葉です。来週がペンテコステの記念の礼拝ですが、この今朝の私たちの御言葉は、ジャストタイミングで、ペンテコステの一週間前の、今日この日曜日にこそ最も読まれるべき、その意味で、来週ペンテコステの聖霊降臨の記念の礼拝を迎えようとしているこの私たちにちょうど当てはまる御言葉が、この御言葉です。
なぜなら、今朝の御言葉には、主イエス・キリストの昇天についてのことが語られているからです。主イエス・キリストの昇天とは、それは、私たちが死を迎えて天に召されるという、召使いの召しと書いて召天と読む、その召天ではなくて、天に昇ると書く昇天です。使徒信条が、「十字架につけられ、死にて葬られ、黄泉に下り、三日目に死人のうちより蘇り、天に昇り、全能の神の右に座し給えり」と告白する主イエスの十字架後の歩みの中で、キリストの昇天とは、十字架後の三日目によみがえったのち、「天に昇り、全能の神の右に座し給えり」というその部分の、天に昇るという昇天です。
そしてそれは具体的には、イースターの40日後に、それはつまり、ペンテコステの10日前に起こったと、聖書に書かれていますので、ペンテコステの一週間前のちょうどこの日曜日が、主イエスの昇天に、暦としてぴったりと合う日なのです。
主イエスはこの20章においては、これまでずっと問いかけを受け続けて、それに答えてこられましたが、今朝の御言葉では、主イエスの方から、これまでこの20章で論争を仕掛けて来ていた人々に、逆に問いかけられました。
それは41節の言葉です。「20:41
イエスは彼らに言われた。「どうして人々は、『メシアはダビデの子だ』と言うのか。」このメシアと訳されている言葉は、ギリシャ語で、クリストンという言葉です。そしてこれは、whyではなくて、howで問いかけられている言葉です。つまり、なぜ、ではなくて、「人々はどのようにして、どういう理由で、キリストはダビデの子だと言っているのか?」という問いなのです。ダビデの子がキリストだ、すなわち救い主メシアだ、ということは、もう聖書にも何度も書かれている、当然の、自明の理でした。新約聖書の最初のマタイによる福音書の1章1節にも、「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図」と書いてありますし、旧約聖書の昔から、ユダヤ人の最も優れた王様で、その時代にイスラエルが絶頂期を迎えたというあのダビデ王に対しても、もうダビデに対しても直接、これは旧約聖書のサムエル記で「あなたから出る子孫が後を継ぎ、その王国を揺るぎないものとする」という約束が神様から語られていましたので、なぜと問うまでもなく、メシア、キリストはダビデの子なのです。けれどもここで問われているのは、それがどういう形をとるのか、メシアがダビデの子として、救世主としてやってくるときに、それはどのような形で来ることになるのか、という実質的な内容がここで主イエスによって問われています。
そして主イエスは、当時のユダヤ人たちが、ダビデの子メシアと語る時に考え、想定していることの意味を、既によくご存じでした。当時のユダヤ人たちが考えていた、ダビデの子メシアという言葉が示す意味は、大きく二つありました。
一つは、ダビデの子という時にそれは、ダビデ王に対して紀元前1000年の昔に直接語られた先程の言葉にもあったように、それはダビデから出る子孫を意味するということ、そういう意味で、ダビデの家系であり系図に連なる子孫としてのある人物が、メシアとして、キリストとして、つまり救い主として、人々を救済する業をなすという意味。
そして、ダビデの子メシアと言われる時に、当時の人々が考えていたもう一つの意味は、そのメシア救い主が、ダビデ王がかつてやったようなことと同じようなことをして、つまりユダヤ人の王国を固く建てて、これも先ほどのダビデ王への直接の言葉にもありましたように、メシアが「その王国を揺るぎないものとする。」と、つまり強い国を再び立ち上げて、ユダヤ人にとっての絶頂期をもう一度、あのダビデ王のごとくにもたらしてくれる。そういう、あのダビデと同じようなことをしてくれるだろう、というダビデの子メシアへの期待が、当時あったのです。
そして主イエスは、それをよくご存じの上で、改めてその理解に、疑問符をつけておられるのです。しかしこれを聞いた時の周りの人々の反応は、ハテナだったと思います。「この人は何を突然言い出して、1000年にわたる自明の理に文句をつけるのか?この者に一体何が分かるというのか?」と。
けれども、主イエスはこの20章のこれまでの連続する論争のすべてに打ち勝って、次々に相手を論破してこられました。この主イエスの言葉は、そのうえでの言葉でしたので、力があったのだと思います。一頁聖書をめくって、前のページに戻っていただきますと、この20章は神殿で福音を宣べ伝えておらえる主イエスの姿に始まり、その主イエスに祭司長や律法学者という、時の宗教的権威者たちが、「あなたは何の権威でこのようなことをしているのか」と、文句をつけたのですけれども、主イエスは9節からのぶどう園のたとえと、20節からの皇帝への税金の問答によって、律法学者と祭司長たちを、26節で「20:26 彼らは民衆の前でイエスの言葉じりをとらえることができず、その答えに驚いて黙ってしまった。」と語られているように、完全に言い負かしてしまわれて、さらに復活についての問答では、サドカイ派の人々も含めて相手にされながら、39節から40節のような結末になっていました。そこにはこうありました。39節。「20:39 そこで、律法学者の中には、「先生、立派なお答えです」と言う者もいた。20:40 彼らは、もはや何もあえて尋ねようとはしなかった。」
「立派なお答えです」という言葉は、「あなたは何と美しく語ることか」という驚嘆の言葉です。それによって、反対者たちは、ある意味説き伏せられ、納得させられ、彼らは「そうなのか!」と膝を打ち、もうそれ以上反論することはできませんでした。
つまり根本的に、反対者と主イエスでは、次元が違う。権威が違い、考え方が全く異なる。「20:41 イエスは彼らに言われた。「どうして人々は、『メシアはダビデの子だ』と言うのか。」そして主イエスは続けて、神の子としての権威をもって、御自分がまさにそのダビデの子メシア、その人なのであるという迫力の中で、敵対者たちが考えもしなかったようなことを言われました。
「20:42 ダビデ自身が詩編の中で言っている。『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着きなさい。20:43 わたしがあなたの敵を/あなたの足台とするときまで」と。』20:44 このようにダビデがメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか。」」
主イエスがここで引用されたのは、詩編110編の御言葉ですけれども、その詩編は、ダビデが書いたのだと言われ、ダビデ自身が、メシアについてこう語っているのだと、主イエスは明らかにされました。42節の詩編の引用の始めに出てくる、主は、という言葉によって、父なる神様が意味されています。その神が、「わたしの主にお告げになった」ダビデ王が、わたしの主と言っていますので、これは、父なる神でもダビデ自身のことでもない、神の子メシアのことです。ダビデは、父なる神がメシアに、「わたしの右の座に着きなさい。」と言っておられるのだと詩編に書き記しているのだと。その神の右の座に着くことができるのは、神と同等の力と権威をもった方だけです。そしてダビデ王ももちろん、ただの人間がその座に着くことはできない。
主イエスは44節で言われました。「20:44 このようにダビデがメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか。」」つまりダビデの子メシアとは、単純なダビデの子孫であり後継者、ダビデと同じような王国を再びもたらすというようなレベルの方ではない。ダビデの子メシアは、神の右の座に就く、神と同等の力を持つ、人間を超えた方で、メシアは、その力をもって、ユダヤ人の国を復興するどころか、天の神様の右から、全世界を支配される。そして、すべての敵を、敵を足台とする。すべての敵を足の下に踏みつけて滅ぼしてしまわれるのがメシアであると。
ダビデの子メシア、キリスト、救い主。つまり主イエス・キリストが、ペンテコステの10日前に成し遂げてくださったのが、まさにこのことです。主イエス・キリストは天に昇り、神の右に座して、この世界のすべてを、その足台としてくださった。メシアは、ダビデ王をはるかに凌駕する、ユダヤ人に限らない、すべての民にとっての救い主だったのです。
どういうことでしょうか?この主イエスの昇天の、何が私たちの救いなのでしょうか?ダビデ王を凌駕するメシアとして、主イエス・キリストが天に昇られて神の右の座に着かれたことの何が救いで、この言葉の何が、思わず膝を打つような美しい答えなのでしょうか?
正直に言って、私も最初は、主イエスの昇天について、あまりピンときませんでした。だからどうしたのかという風に思っていました。主イエスのなさる色々な事柄について、病をいやしてくださる。神の愛を語ってくださる。私たちの罪の身代わりとして十字架に架かってくださる。そこまでは何とか理解できる部分があったのですが、キリストが復活されて、そのあと天に昇って、神の右の座に就くということが、どんな意味を持つのか?
宗教改革者であり、この改革派教会の礎を築いたカルヴァンは、このキリストの昇天と、神の右の座への着座を、とても重要な主イエスの御業だとして重んじて、その主著であるキリスト教綱要の中でも、とても多くのページを割いて、それについて語っています。
そこでカルヴァンが大事にしたのは、天に昇られた主イエスと私たちとの距離感です。カルヴァンは、主イエスは昇天と天への着座によって、この世界の外の、より高いところに立たれたということを大切にし、だからこそ私たちには希望と慰めがあると語りました。
近くにおられるということは、もちろん親しさを意味しますが、同時にカルヴァンにとっては、場所的に限定される小ささや限界をも意味することでした。
私は関東地方で、具体的には横浜と埼玉で育ちましたので、天気の良い日に南を見ると、いつも富士山が見えました。埼玉県の川越や、大宮や、関東平野の北の方からでも、かえってそういう遠くからの方が、遮るものがないので、富士山は不思議とかえって大きく見えます。
そして、ちょうどそれに似たことが、キリストの昇天においても起こるわけです。2000年前のイスラエルにおられた、ローカルな存在だった主イエスは、ただのダビデの子以上のお方として、時間と空間を超越した天に昇られて、神の右に着座された。カルヴァンは、その天におられるキリストをいつでも見上げて生きることこそが我々の生き方に他ならないと言って、ラテン語で、スルスム・コルダ、心を高く上げよ!これを合言葉にして、そして、ハートを手の上に載せて天に掲げるという、このマークを自分のトレードマークにして歩みました。
天で、神の右におられる主イエス・キリストを、カルヴァンも私たちも、世界中どこにいても、どの時代に生きていても、すべての人の上に太陽の光が届くように、主イエス・キリストはそういう存在のメシアとなられて、すべての人の心は、天におられる主イエス・キリストを、いつでもどこでも、見上げることができる。そして主イエス・キリストは、今この時も、ご自身のこの御言葉の通り、天から私たちを見守ってくださっていて、私たちのあらゆる敵に打ち勝ち、それを足台として、その上に立っていてくださる。
何が起こっても、どんな大きな困難が私たちを襲っても、死の重みで、息ができず、私の肺がつぶれようとするときにも、しかし上を見上げる時、そこには、死から復活し、天に昇られた、主イエス・キリストが、生ける神として、私たちの敵を滅ぼしてくださる方として座してくださっている。
そして、天に昇られた愛なる主イエスが、昇天によって、神の右手となって、世界の支配者として、すべての人の救い主として立たれた。そして、さらに主イエス・キリストは、来週私たちが祝いますペンテコステ、聖霊の注ぎを、天に昇られた十日後に与えてくださり、聖霊によって、天の主イエスと私たちの距離は、今、ゼロになりました。
本当に、ダビデの子メシアが天に昇られたことによって、力と、恵みと、希望が、この私たちに、さらに豊かに、そして深く、増し加わったのです。
今、天におられる私たちの主イエスは、この上なく、広くて、大きくて、強い方です。コロナ禍で教会に集えない多くの方々の重く苦しい部分、ここにいてもひしひしと覚えますが、しかし、私たちは、今置かれているその場所から、天におられる主イエス・キリストを見上げることができ、今、主イエスと、目を合わせることができます。
最初の殉教者となったステファノは、石打ちに遭いながら殺される寸前、「聖霊に満たされ、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエスとを見て、『天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える』」と叫びました。
私たちは色々な救いを考えます。念願成就、立身出世、病の癒し、悩み苦しみの除去。しかし、すべてをその足元に置くことのできる、死をも克服した主イエスと結び合うこと。今私たちのこの心を、高くその天の御座に伸ばし掲げることができること。その、復活の、全能のメシアに今結び付き、私たちがキリストのものにされること。今私たちがこの礼拝で、メシアはダビデの子、にとどまるのではなく、私たちの救い主は、天に昇られて、神の右に座す主イエス・キリストだと皆で言えること。これこそが、最も大きい、すべてを突き抜けた、救いなのです。