エフェソの信徒への手紙2章11~22節 「聖なる霊を受ける」
コロナウィルス禍で迎える二回目のペンテコステ礼拝となりました。ディスタンスという言葉が既に日常用語となり、未だ緊急事態宣言は解かれることなく、ステイホームが奨励されて、また実際に感染の足音も生活のそこかしこに聞こえるようになってきていますので、今朝も多くの方々がこの礼拝を自宅から共に捧げてくださっています。
今月初めに「ディスタンスを超えたスタンス」と題されて行われた全国青年リトリートで、私は講師の一人として講演を担当させていただいて、そこでは「離れたのは距離だけです:今こそ教会をHOMEにしよう」という題で講演をさせていただきました。
ディスタンスが人との間に設けられて、会食が御法度になってしまってはいますが、しかし本当に、離れたのは距離だけです。今朝のエフェソの信徒への手紙の御言葉には、近いという言葉が三度語られていて、その文章が、今朝の御言葉の核の部分になっています。
近いという言葉はまず、今朝の2章13節に出てきます。「2:13 しかしあなたがたは、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです。」
そもそもこの御言葉は、エフェソの信徒への手紙という手紙の中の言葉ですので、パウロが、今ではトルコ領ですけれども、対岸にギリシャを臨むエーゲ海沿岸のエフェソの町の教会に送った手紙です。そしてそのエフェソという街には、当然、ユダヤ人から見れば、外国人が住んでいた。そこは異邦人の町でした。
イエス・キリストは、イスラエルのエルサレムで十字架につけられたユダヤ人でしたので、ユダヤ人を発祥とするエルサレムから生まれた宗教がキリスト教でしたから、エフェソはその発祥の地から見れば、遠く離れた町であり、異邦人の町であり、人々はギリシャ神話の神々のことは知っていても、イエス・キリストを知らなかった。そこには大きな壁、はるかなる隔たり、ディスタンスがそこにはあったのです。
今朝の11節12節にその事実が述べられています。「2:11 だから、心に留めておきなさい。あなたがたは以前には肉によれば異邦人であり、いわゆる手による割礼を身に受けている人々からは、割礼のない者と呼ばれていました。2:12 また、そのころは、キリストとかかわりなく、イスラエルの民に属さず、約束を含む契約と関係なく、この世の中で希望を持たず、神を知らずに生きていました。」
神を知らず、神から遠く離れていた、キリストとかかわりのなかったあなたがた。それゆえに、希望も持っていなかった、あなたがた異邦人、と言われていますが、これは時を超えて今この私たちにも当てはまる言葉です。ですから、人々が神を知らず、この世の中で、この人生の中で、生き方の中に希望を持てない状態というのは、まったく今に始まったことではなかった。それは、はるか昔の聖書の時代の綺麗なエーゲ海沿いの町でも、私たちと同様に同じだったようです。神を知らないということと、希望を持たないということ、そのことと異邦人であること、つまり救いの民に属さないアウトサイダーだということ、それゆえにキリストとのかかわりを持たず、神の救いの約束の中にいないということ、さらにそれと、遠く隔たるディスタンスということが、すべて結び付けられて語られています。
これはつまり、この聖書の時代から、コロナウィルス禍があるなしに関わらず、ずっと前からディスタンスは歴然と存在していたということです。エーゲ海の青く美しい海を臨むような街であっても、人々は人種によって、各々の宗教によって分断されていた。人々はそ孤立と孤独と分断の中で、穏やかでない心を抱えていた。互いのいがみ合いと対抗心、敵対心の中を、人々は生きていた。そして、そうやって枯れ果ててしまった荒れ地の中を、労苦して生きていくのが人生だと思っていた。そして、エフェソに住んでいたユダヤ人から見れば聖書の神とまったく接点を持たないこの異邦人たちと全く同じようにして、この私たちも生きてきた。
けれどもパウロは、今や、それとは全く逆の平和が、愛が、和らぎが、和解が、もたらされたと、エフェソの人々に書き伝えています。14節から16節です。「2:14 実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、2:15 規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、2:16 十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。」
実にキリストが平和である。ワクチンや、補助金や、政治や、経済がという色々な平和への道が考えられうる中で、そういうものを超えて、ただパウロはキリストについて語り、「実に、キリストはわたしたちの平和であります。」と語っています。そしてこのキリストから、宗教や人種間の対立であったり、政治、経済の問題、また私たちの心の奥底にある根本にかかわる希望というもの、神様との関係、お互いにいがみ合ってしまう荒れた心の問題、敵意の問題、孤独、分断、疎遠、ディスタンス、自分は何者で、どうやって生きることが自分の生き方なのかという、自分の所属と居場所と人生の目的の問題。パウロが言うには、そのすべてについて、私たちが失ってしまっている平和が、ただこのイエス・キリストによって蘇生される。キリストの十字架から、すべての解決と平和が引き起こされる。細かな論理や説明を超えたところのある解決方法ですが、しかし、神様の側ではこの問題解決の筋道は通っています。15節後半の御言葉にもありましたように、「こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、2:16 十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。」キリストによって、新しい人へと造り上げられる一人の人間が、平和と和解を作り出していく。今朝の御言葉の一節前のエフェソの信徒への手紙2章10節にも、同じことを語る、宝物のような御言葉が置かれています。そこでパウロは、私たちは「2:10神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られた。」と語っています。
善い業をなすために、キリスト・イエスによって造られた、私たち。その私たちの造り上げ、私たちの造り変えは、現在進行形です。その様子が、近いという言葉が連続して使われている、続く17節18節に語られています。「2:17
キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。2:18 それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。」
神様と私、そして、私と、私の隣人。この三者が、まるでトライアングルのように結ばれて、疎遠であったのが近くなって、ひとつになる。それを可能にしてくれるのが、キリストによって結び付けてくださる、ひとつに霊だと言われています。これが聖霊です。聖霊なる神は、主イエス・キリストを通じて、私たち人間同士と、また私たちと父なる神様を、結び付けてくださる、今この目には見えませんけれども、しかし確実に存在しておられる、私たちそれぞれに送られる神の霊です。
水曜礼拝の三位一体論の学びでもお話ししましたけれども、私たちの三位一体の神様は、ただ天国の遠くにおられて、そこで三人で仲良くされている神様ではなくて、神様はイエス・キリストによってこの世界に来てくださり、さらに聖霊なる神も一人一人の心に遣わしてくださることによって、その三位一体のトライアングルを大きく広く広げてくださって、その輪の中に、この私たちお互いをも入れてくださり、御自分の懐で結び付けてくださる。そのような神様です。
したがって、ペンテコステの日の10日前に天に昇られて、神の右に着座され、今日このペンテコステの日に主イエス・キリストが天から注いでくださった聖霊なる神を心に受けた私たちは、どうなるのか?今朝の最後の部分の19節から22節まで、お読みいたします。
「2:19 従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、2:20 使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、2:21 キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。2:22 キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。」
19節に、外国人でも寄留者でもなく、という言葉があります。英語の聖書には、ストレンジャーでもアウトサイダーでもなく、と書かれていました。寄留者という言葉を、根っこを持たない宿り人、と訳している日本の説教者もいました。寄留者とは、そういう定住できる家を持たない人のことです。そして外国人とは、先ほども語りましたけれども救いに入っていない異邦人を指します。よって異邦人とは、当然エルサレム神殿の中に入ることを禁じられていて、礼拝すること、神様に近づくことが許されなかった人たちを指します。
しかし、そういう者たちが聖霊を受けた時、すべてが変わりました。あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であると。さらに22節には、「2:22 キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。」とまで、言われています。
聖霊を受けた私たちが、キリストを土台として、聖霊を愛と平和の結び目として、一つとなって生きる時、そういう私たちそのものが、神の住まわれる神殿となる。神様は近いどころか、この私たちを住まいとしてくださり、私たちに宿ってくださる。
全国青年リトリートの講演で、北九州市で長くホームレス支援をしておられて、東北の震災の時にも東北まで来てくださって、直接お話を聞くこともできた、奥田知志牧師の言葉を紹介しました。奥田牧師はこう語っておられます。
「私たちはホームレス問題に取り組んでいますが、よく考えると、実は、今の社会そのものがホームレス化した社会ではないかと思うのです。私の教会に来る人の中にも、家はあるけれども人との関係が切れた人がいます。社会全体でも、家はある。家族もいるのにホームレス状態になっている人がなんと多いことでしょうか。そうした人々が集うことのできるホームに教会がなっているかどうか、そのことが今、問われれていると思います。求められていることをひと言で言うなら、ホームの回復です。私が牧師をしながらホームレス支援をしていることに意味があるとしたら、まさにそこではないでしょうか。教会は血縁のつながりではありません。血がつながらなくても、家族になれる場が教会だと信じています。その意味で、どういう教会を作るかは信仰の本質にかかわる課題であるとともに、今という時代に教会があることの使命に関わる課題であると思っています。」
ちゃんとした、ホームがなければ、自分の存在を温かく迎えてくれる家族がいなければ、ステイホームなどできません。家から外に出ずに閉じ籠もっている時、そこがただの孤独な、ただそこに屋根があるだけという場所ならば、今後もディスタンスは必要とされ続けますから、さらに孤独や寂しさが倍増していくわけで、もう居たたまれません。日々増していく苦しさに、じっとしているのが本当に堪え難く、ただそのままにされているだけでは、私たちはおかしくなってしまいます。
でもこの一年間の経験で、私たちは改めて知りました。ディスタンスが生じても、聖霊は決して離れない。少々私たちが距離をとったところで、主イエス・キリストの私たちへの近づきは、その迫力を失わない。目を閉じ、手を組み、神様に祈るならば、その瞬間に、神様は私を見つめて、頬を寄せてくださる方だ。リモートで礼拝している今その場所この場所に、神様は確かに居てくださった。この私の心を、コロナ禍になる前から、本当に神様は、御自身の住まいとしてくださっていたのだということを、私たちは改めて知りました。
今、この時、この時代にこそ、この教会をホームに。外国人でも、寄留者でも、誰もが入ってくることができて、誰もがつながることができて、誰もが神の家族になれる。そのかけがえのないキリストの教会が、この町にも必要です。ディスタンスがあって、たまにしか会えなくても、オンラインであっても、でもちゃんと神様と人に繋がれる、近づけるこのホームが、私たちだけではない、100年前から顔も名前も知らない色々な人たちが大切にしてきたホームが、今ここにあることに感謝します。そして今や、この建物だけでなく、私たち一人一人が、聖霊の働きによって神の住まいとされている。その意味で一人一人の存在が、特に今オンラインでつながってくださっている一人一人の存在こそが、そこに建てられている、生きた、神の教会だということにも、感謝いたします。
祈り
遠い、隔たった、孤独だった、部外者の、無関係でかかわりない者たちであった私たちが、今は、そういう過去から贖い出されて、近い、親しい、平和な、家族、神と住まいとされましたことに、感謝いたします。私たちは聖霊を受けることによって、全く変えられました。どうかますます、あなたが私たちの間で大きくなってください。そしてもっともっと、親しさ、近さ、温かさ、平和、家族、神が一緒に自分の家に、部屋に、そして人生に、住んでくださることの嬉しさ素晴らしさを、聖霊なる神様の恵みによって、ますます豊かに味わわせてください。それを共に知り、その豊かさに向かって共に成長することのできる教会の兄弟と姉妹、家族が、今日も礼拝によって、距離を超え、一つにつなげられていることを、心から感謝いたします。私たちをますます、新しい人に、そしてこの町を板宿教会というホームを通して新しい町に、いよいよ、あなたの聖霊が造り変えてください。主イエス・キリストの御名によって、祈ります。