2021530日 ルカによる福音書204547節 『“脱”権力支配』

 説教の前にお読みした旧約聖書ゼカリヤ書の46節に、「武力によらず、権力によらず/ただわが霊によって、と万軍の主は言われる。」とありました。武力によらない、権力によらない、ただ、神様の霊による支配を確立せよと、これが当時の王様ゼルバベルに向かって語られた、神様からのメッセージでした。

 今世間では、マウントをとる、マウンティングという言葉がよく使われています。物心両面で相手の上に立って、上から相手に馬乗りになるという意味の言葉ですが、もうこれが、私たちのこの社会のあらゆる隙間に入り込んでいます。

 先日、大阪市立木川南小学校の校長先生が、大阪市の教育行政に提言をしたことがニュースになっていました。その提言は、オンライン授業で現場が混乱したということを超えて、学校教育の本質を問う、深い問いかけでした。「学校は、グローバル経済を支える人材という『商品』を作り出す工場と化している。子どもたちは、テストの点によって選別される『競争』にさらされる。本当に子どもの人権を尊重し『最善の利益』を考えた社会ではないことが、コロナ禍によってはっきりと可視化されてきた。虐待も不登校もいじめも増えるばかりである。過度な競争を強いて、競争に打ち勝った者だけが『がんばった人間』として評価される、そんな理不尽な社会であっていいのか。『生き抜く』世の中ではなく、『生き合う』世の中でなくてはならない。」とその校長先生は述べています。

 マウンティングができる上の立場に立って勝者となるための競争に、子どもたちまでもが巻き込まれている。競争に勝って優位なポジションをとるための競争原理が、初等教育までをも蝕んでいる。そんなマウンティングの構造が、今だけでなく、ゼカリヤ書の紀元前の古代世界にも、主イエスの歩まれた2000年前にも、幅を利かせてきた。

 

 権力という言葉がありますが、権力という言葉は、先ほどのゼカリヤ書でもそうでしたが、それは聖書の中では悪い意味で使われる言葉です。少し先の御言葉ですが、ルカによる福音書の2225節で、お読みしますのでお聞きくださればと思いますが、主イエスは、「異邦人の間では、王が民を支配し、民の上に権力を振るう者が守護者と呼ばれている。しかし、あなたがたはそれではいけない。」と言われました。民の上に権力を振るう者、これこそが、上から力を振りかざすマウンティングをする者の姿です。しかし弟子たちに主イエスは、「あなたがたはそれではいけない。」と言われます。そして22章のこの言葉は、あの最後の晩餐の席上での言葉です。ルカによる福音書では最後の晩餐の、もうこの先二度と主イエスと食卓を囲んで話を聞くことができないという最後の夕食の場面で、主イエスは、権力を用いて人に馬乗りになることへの批判という、このことだけを話しておられます。そしてこの事実は、この問題がどれほど大きく、大事な問題であったのかということを示しています。

 

 そういう主イエスが、今朝の御言葉で、決してああいう風になってしまってはだめだと、弟子たちだけでなく、民衆皆が聞いている前で言われたのが、ユダヤ教律法学者ら、宗教家たちによる、宗教的権力を用いての信仰的マウンティングでした。

 今朝の4647節に、律法学者たちの様子が列挙されています。彼らは、長い衣をまとって歩き回りたがりました。当時は特別な宗教的権威者や教師は、その人たちだけが着ることのできる特別なユニフォームを着ていたようです。また当時の熱心なユダヤ人たちは、それを見るたびに主の戒めを思い出せるように、衣服の房を一部分だけを違う色にしていたようです。しかし、服の房を長く伸ばすことが聖書に命じられていたわけではありませんでした。ですので、ここでは、ただ自分だけに分かるしるしがあって、それを通して神様のことを思い出せれば、それで良い訳なのですけれども、しかし律法学者たちは、自分の宗教的敬虔さや、霊的な高さを人に誇示するためにわざわざ普通の人が着ることのない長い衣をまとって、それで人々の間を歩き回りたがりました。

 それは何のためか?その次に書かれていますように、そのことによって広場で目立って、うやうやしく人々から挨拶されるため。さらにユダヤ教の会堂では、どうぞどうぞと上席に押し上げられ、町や村の宴会では、いやいやお世話になっていますからと上座を勧められるようになるため。つまりそれは、宗教的、社会的権力を得たいがためでした。

 

 さらに47節には、やもめの家を食い物にするという、貧しい弱者からの搾取を平気で行う様が語られ、さらに彼らは、見せかけの長い祈りをする。主イエスが何度も彼らを偽善者だと呼ばれたように、さも神様に仕えているようなそぶりを演じながら、実は彼らの腹の底には信仰心で隠された強烈なエゴイズムがあり、彼らは人を踏みつけ犠牲にしながら、宗教的力によって人を支配し、神様さえもを自分のために利用して生きていたのです。

 

 「このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」と主イエスは言われました。それは当然です。権力を好み、権力によって人を上からマウンティングし、自ら律法学者だと、聖書の神の掟の専門家を名乗りながら、しかし彼らは、聖書の教えを全く別のものに変えてしまっている。聖書に精通し、聖書を語っているようでいて、その彼らの現実の生き方は、自分を高みに引き上げて人を見下し、自分に人の賞賛の目を集めることで、人々の目が神様に向くことの邪魔をし、人を生かさず自分を生かす生き方になっていた。全く聖書が語っていることと違う、神様がなさりたいこととも違うことを、彼らは神様の名のもとに語り行っていた。この間違いの罪は、最も重く、それが宗教的、信仰的体裁を採っているがゆえに、最もたちが悪い。

 

 主イエスがここで弟子たちのみならず、民衆皆に対してこの話をされたように、これは単にこの聖書の時代のユダヤ人律法学者たちだけを批判しようと語られた言葉ではありません。これは、どの時代に生きるどんな人でも、神の御言葉に耳を傾けんとする者たちは皆、聞く必要のある言葉であり、そうならないように気を付けなければならない姿です。

 

 この競争至上主義、勝者だけが救われるという弱肉強食の権力志向に生きる信仰の姿を、聖書は律法学者たちの名をとって、律法主義と呼びます。そして、その悪しき律法主義の逆をいくものは何であるかと言えばそれは「恵み」であると言えると思います。

 

 このルカ福音書の20章は、律法学者たちの主イエスを責め立てる言葉で始まりました。202節で律法主義者たちは、「我々に言いなさい。何の権威でこのようなことをしているのか。その権威を与えたのはだれか。」とイエスに詰め寄りました。主イエスは、権力を非難されましたが、しかし権威については否定されませんでした。そして主イエスは権威について、この20章で、既に言葉を重ねて伝えてくださっていました。ぶどう園と農夫の譬えを通して、主イエス・キリスト御自身が、十字架に架けられ捨てられながらも隅の親石になられたこと、皇帝への税金の話を通して、主イエスは皇帝が持つ権力とは別次元の広さ大きさで、世界と全ての命の所有者であられること。復活についての問答、そしてダビデの子についての問答では、御自身の復活と昇天と神の右の座への着座について語られて、これをもって、主イエスはご自分が、見まごう事なき神の権威を帯びた救い主だと示されました。そしてその権威とは、人間に過ぎない者が、ちょっと人間同士の団栗の背比べに勝ってマウントを取るというような、ちっぽけな権力とは違って、主イエスの権威とは、その権力者をも足元から包む、もっと深い、神の慈愛、神の恵みに基づく、そして同時に主イエスの十字架と復活と昇天に基づいた、言葉をもはや返せなくさせるほどに権力者をうならせ、黙らせ、権力者をその前に沈黙して膝をかがめるほかないようにさせる、人間からは醸し出せない、神の愛の深みから来る圧倒、神の尊厳の圧倒なのです。

 その主イエスによってあらわされた神の権威の前には、権力者はぐうの音も出なくさせられます。かつて、このルカによる福音書4章で、荒れ野で40日にわたって悪魔が主イエスを誘惑した際、悪魔は、「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。」とけしかけましたが、主イエスは「『あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ』/と書いてある。」と答えられて、悪魔は主イエスから離れ去りました。権力と繁栄を自由にできる悪魔でさえ離れ去らせる、主イエスの権威。それは、主イエスが権力対権力で悪魔に打ち勝ったのではなく、神の御言葉とその言葉を送ってくだる神に信頼し、自分自身の権力や繁栄にこだわろうとしない、そして律法学者のように、人間の前に自分自身を誇示して人と張り合うということよりも、もっと深いところからくる神様の愛と恵みに、主イエスが深く根差しておられたからこそ、そこから汲み出される権威に、悪魔は対抗できなかったのです。

 

最後の晩餐の席上での最後の説教で、マウンティング批判をされた主イエスは、その直後に律法学者たちに捕まって、まさに馬乗りにされて鞭打たれ、次の日に十字架で死なれました。しかし、それによってどんな権力者であっても示すことのできない、神の恵みの権威が示されました。権力者の象徴たる主イエスにマウントを仕掛けて、十字架で殺したローマの軍人、百人隊長は、自ら十字架に架けて殺した主イエスを見上げて「本当に、この人は正しい人だった」と呟いて、自らの非と自らの罪を認め、そればかりかその場所で、彼は神を賛美しました。権力とは別枠の、破格の恵みと愛の権威に彼はその時包まれて、主イエスの返り血を浴びているような、十字架刑の直接の執行者である罪人が、喜び溢れるようにして神を賛美した。人を殺すのが仕事であるような軍人の、しかも権力者の剣と暴力による支配が、十字架の愛の前に力を失う。

「誰かがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。」と主イエスは語られました。右を打たれて、しかしひるまず左の頬をも差し出すなら、ひるむのは必ず相手の方であり、そのとき相手は、それ以上手を出せなくなります。権力や力に対する、愛による勝ち方がここにある。権力支配に、愛の権威が打ち勝つ時の勝ち方は、こういう勝ち方だと思います。

 私たちは、権力による支配、マウントを取ることによる支配をやめます。そこから脱します。世の中から見えれば、それは無防備に見えるのかもしれませんが、私たちに、世の中の人にはまだ見えていない生ける神様が見えているならば、そういう進み方ができるのではないか。先週ペンテコステ礼拝でお話しした、イエス・キリストの十字架による平和と和解とは、つまりはこういうことなのではないか。脱・権力支配とは、反律法主義であり、それはのし上がって、蹴落として、踏みつけるのではなく、神様の恵みに信頼して、それに支えられ、支えながら愛に支配されて歩むことです。

 

 自分の力を誇示し、そこからもたらされる権力を求め、権力的な力によって自己を実現しようとするならば、人はすぐに息切れしてしまいますし、冒頭の校長先生が言っていたように、競争原理の中を生き抜くという思いの中では、常に頑張って、競争から脱落しないように常に緊張をしていなければなりません。

 しかし、イザヤ書40章の有名な御言葉は、こう語ります。40:28 あなたは知らないのか、聞いたことはないのか。主は、とこしえにいます神/地の果てに及ぶすべてのものの造り主。倦むことなく、疲れることなく/その英知は究めがたい。40:29 疲れた者に力を与え/勢いを失っている者に大きな力を与えられる。40:30 若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが40:31 主に望みをおく人は新たな力を得/鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」

 主に望みをおく人は新たな力を得/鷲のように翼を張って上る。鷲が空を上るときには、自分の力でバタバタ羽を羽ばたかせることはせず、ただ翼をぴんと張って、上昇気流に身を任せます。

 板宿教会は、先週527日に伝道開始百周年の大きな区切りを迎え、今朝の日曜日から101年目を歩み出しました。もし私たちが、権力や勝利を追い求めるようにして、隣の教会に追い付け追い越せでやっていくなら、次の記念日は遥かに遠く、そこまで辿り着けるのかどうか、気が遠くなります。けれども神様に対して翼を張って、神様の恵みに支配されて上っていくなら、そうしている限り、もちろんこの先も色々あるでしょうけれども、でも、私たちが倦み疲れ、倒れ伏してしまうことは、決して起こらないと思います。神様の恵みを背に受けて、これからもご一緒に歩みましょう。