202166日 ルカによる福音書2114節 「神様の目」

 今朝のこの御言葉には、うるさい音が感じられません。落ち着いた、本当に柔らかい静けさが、この御言葉を包んでいます。その点で今朝の御言葉は、先週の御言葉や、次の来週の御言葉と、大分違います。先週の主イエスの言葉では、そうならないように気を付けるべき、顎の上がった騒がしい権力者たちの姿がそこに見えました。来週の御言葉でも、終末の患難が語られます。けれども、今朝はそのはざまに、静かで、暖かで、ほっとする。まるで美しいスローモーション映像を見ているような、御言葉が置かれています。小さな箱に入った、大事なプレゼントを開くようにして、大切に味わいたい御言葉です。

 

 やもめ、未亡人、という言葉に、まず心を掴まれます。未亡人であるということは、配偶者を既に天に送っているということです。片割れを失う。家族を失う。そのことによって自分が取り残されてしまった。その人生には深く重い打撃が加えられ、彼女はそういう痛みを知っている。一人で歩むことの厳しさ、一人で迎える夜の孤独と不安をよく知っている。高齢だったのかまだ年若かったのかは明言されていませんが、そういう人が、けれど一人で、きっと住まいは神殿の近くではないと思います。エルサレムのはずれか、あるいは隣町か、隣町のそのまた隣町か、しかしそこから歩いて、過越しの祭りの特別なこの期間に、エルサレム神殿まで、献金を捧げるためにやってきた。

 私たちと同じです。このやもめのような、そういう一人一人が、今朝、この礼拝堂にも共に集い、また、オンラインでつながってくださっているお一人お一人のことも、この名もなき女性は代表しています。聖書の中に出てくる名前のない人というのは、私たちの名前をそこに当てはめて読んでいい、私たちもその人に自分自身を重ねて、この御言葉の世界を体験することが許されている、そういう、私たちの代表者です。

 年に一度の過越しの祭りの時期ですので、エルサレムの町は賑わい、特にその中心にあるエルサレム神殿は、全国から集まる礼拝者たちでごった返していたはずです。その時ばかりは、普段はあまり神殿に赴かないような金持ちたちもやって来て、代わる代わる賽銭箱に献金を入れていました。しかし聖書のカメラは、そして神様の目は、その雑踏の中の、誰も見ていないような一人の小さなやもめの姿を、映し出します。主イエスの目は、レプトン銅貨2枚を賽銭箱に入れるやもめの手先を捉えていました。そして、そればかりでなく、主イエスの目は、そのやもめの心の内側、さらにはその人生の全体をも、よくよく深く、捉えてくださっていました。

 誰にも見えず分からないはずのレプトン銅貨2枚という献金を捧げた瞬間と、それを捧げたやもめの心は、しかしそれを受け取ってくださる神様の目には、よくよく見えている。神様は、主イエス・キリストは、感謝のしるし、献身のしるしですと言って捧げている私たちの献金とその心を、しっかりと見逃さずにいてくださいます。そして、よく見てくださっているということは、神様は、私たちのたった一回の献金さえも、それをお忘れにならずに、永遠に覚えていてくださるということです。ということは、名もなき私たちの一回の献金が、永遠の意味を持つ。何ならそれが聖書に書き刻まれて、この私たちの姿も、この名もなきやもめの姿を通して、彼女のこの姿と重なる形で、永遠に保存される。これは、神の恐ろしいまでの覗き見という怖いことではなくて、私たちの心の内側の、言葉にはならないどんな小さな思いや願いも、神様は分かってくださり、大事に汲み取ってくださるという、これは私たちにとっての、安心であり、心強さです。

 

 主イエスは、献金をするやもめの姿を見て、言われました。今朝の34節です。「確かに言っておくが、この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである。」

 「有り余る」とは、溢れ出るという言葉です。金持ちは、自分の生活を十分に潤したうえで、そこから溢れ出て、余ったところから献金したのだという意味です。しかし、やもめは、乏しい中から、持っている生活費を全部入れた。「乏しい中」と訳されている言葉は、赤字と訳せる言葉です。すなわちその場合、金持ちたちとは違って、生活から溢れ出た余剰分ではなくて、生活に食い込み、それを捧げると赤字になり生活が出血を余儀なくされる、そういう自分の生活に食い込むような犠牲を払いながら、彼女はその時持っている財布を逆さまにして、それを殻にして全部を入れた。

 さらに、この最後の「生活費」という言葉も、今朝、特に大事に読み取りたい言葉です。生活費と訳されている言葉の原語には、生活費の費という、金銭的な意味合いは、実はほとんどなく、これはギリシャ語ではビオスという、バイオテクノロジー、生物学とか、そういった言葉の語源になっている、命、また人生、という意味を表す言葉です。ですから、今朝の四節の終わりの言葉は、「このやもめは、自分の骨身を削ることもいとわずに、その人生のすべてを捧げたのだ」と、そういう意味の言葉として受け取ることができます。だからこそ主イエスは、彼女の2レプトン、今で言えば100円玉二枚ほどの額の献金を見て、「確かに言っておくが、この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた」と言ってくださったのです。

 

 この御言葉には、どういう、私たちへのメッセージが込められているのでしょうか?

 先週の御言葉は、律法学者たちの姿を通して、権力による支配が、悪しきものとして否定されていました。そしてその流れで、献金ということを扱う今朝の御言葉につながってるのですが、権力というものは、突き詰めていくとそれは、結局のところはお金に帰結します。お金を持っている人が、力を持ち、権力を持つ。今も昔も、確固たるそういう社会ですので、この社会の中で力を持ち、勝ち抜いて生きていこうとするならば、何の疑いもなく、お金をより多く手に入れて、それによって、人生を建て上げ、たくさんの貯金があれば、将来にわたって安心安全な生活を築き上げることができると、普通に人は考えて生きています。

 けれども献金をするということは、お金がたくさんあればあるだけ安心安全で幸せだという、そういう考えに抗うことです。しかも、生活費に赤字を生じさせるほど献金をするこの女性を御言葉から示されてしまうと、この種の聖書の御言葉は、自分の懐事情に切り込んできますので、ちょっと嫌だなと思ったりする。そういう意味で、献金のことを考えるということは、私たちにとって生々しく、リアリティーのあることで、ともすれば、これはついていけないと、彼女のようにはとてもなれないと、ともすれば気後れする気持ちになってしまいます。どういうことを、この御言葉は私たちに伝えたいのでしょうか?

 

 彼女はなぜ、貧しかったにもかかわらず、それほどまでに捧げることができたのか?そして、主イエスが喜んで賞賛されたのは、彼女の中にあるどんな心に対してだったのか?

 最初にも言いましたけれども、このやもめの話は、平和で、とても美しく清らかな、小さな宝物のような御言葉です。

やもめは、財布を、生活費全てを賽銭箱に空けたわけですけれども、彼女はやけくそになって、もう生活に対して投げやりになって、生きることを放棄しているのでは決してありませんでした。彼女は、献金によって生きることを放棄したのではなく、逆にそれで、しっかり生きて、逆にそれで、命を得ている。命に満たされているのです。

 

どんな顔で、この時彼女は献金をしていたのでしょうか?彼女は貧しいやもめでした。家族との死別を経験し、頼れる者のいない、収入も豊かにない中で苦労を味わってきた、しかし、このやもめの人生には、この時だけでなく、神様の目が常にずっと注がれてきた。彼女は、自分の苦労の多い人生を、恨んではいなかったのだと思います。どうしてやもめになってしまったのかと、自分の人生を悔しい思いで振り返りながら、苦虫を噛み潰すようなかおで彼女は神殿の前に立ったのではなかった。むしろ彼女は、静かに微笑んでいたのではないかと思います。彼女は、彼女のその人生の中で、神様と出会い、神様からの光を受けて、神様に守られ、支えられ、養われ、神様は彼女のその時々の祈りを聴き、彼女の求めに応じてくださった。彼女には、神様の恵みが自分の人生にもしっかりと届いて、そこに豊かに働いているということがよく分かっていたのではないかと思うのです。

 

その彼女にとって、その2レプトンの献金は、「私を生かし、支えているのは、お金ではなく、神様あなたです。」という、信仰の告白だったのです。彼女の、包み隠さないリアルな本音からくる、「神様ありがとう、神様あなたは素晴らしい、私にできる私の人生を、どうか神様、受け取ってください」という、神様への強い賛美が、彼女のこの献金だったのです。生活費という言葉は、命という言葉であり、人生という意味の言葉だと申しました。生活費のすべて、人生のすべてを賽銭箱に入れて、彼女は、自分の人生を神様に託し、本気で神様に寄りかかり、自分の命を預けたのです。

お金に支配され、お金のために生き、お金のために死ぬのではない。神様に支えられ、神様のために生き、死ぬとするなら、神のために死ぬ。この口でそれを告白することもできますが、献金はこの私たちの命と人生と、具体的な毎日の生活を、そういう神様にこそ信頼と命を預けて生きるという生き方に、もっと具体的に引き入れてくれます。その先にあるのは、お金に縛られず、神様にこそ支えられて生きるという、お金よりも強い神様の支配であり、自分の人生をお金に賭けるのでもなく、自分の人生の価値をお金に決めさせるのでもなく、そこから自由になって、私を愛してくださる神様に、この命を任せるという生き方です。

 

 献金は、毎週、毎月していくものですし、それは一生続きます。それを、依然心はお金の方に支配されたまま、もったいないなと思いながら献げるのと、「私の神はお金ではなく神様あなたです」という信仰告白として、力強い、口によるだけでない、具体的な自分の生活による神賛美として、すがすがしい気持ちで献金をしていくのとでは、全く違った人生になるのだと思います。

 礼拝の中で、説教のあと、献金を集めるあの時間。少しの緊張と、しかし人や、券売機や、タッチパネルに向かって支払うのではない、神様に対して、一人一人がそれぞれの大切な捧げものを捧げ、心で神様を見上げるあの時間が、私はもともと嫌いではなかったのですが、今朝の御言葉を通して、その時間がもっと楽しみになりました。献金の時間は、私たちの信仰を財布を通じて表すときであり、生活を通して神賛美の時である。それは、私たちの心が、捧げることによって、さらに満たされる時間です。

 

 そしてこのあと、自らそのやもめを見て、「この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。」と言ってくださった主イエスは、ちゃんとその信仰と献身に、責任をもって答えてくださり、命に命で返してくださいました。このことが起こったは、受難週の火曜日だったと言われています。つまりこの三日後に主イエスは、やもめの2レプトンに答えて、命と人生のすべてを捧げるその思いに答えて、十字架に架かって、彼女の人生のすべての罪の赦しと、永遠の命を与えてくださり、そのすべての労苦の涙を拭い去ってくださったのです。

献金は、実に、主イエス・キリストの十字架に対してするものです。御自分の命をすべて捧げ、この今の命以上の永遠の命を、私たちに与えてくださった主イエス・キリストの十字架を見つめながら、私たちも真心から献金できる。皆で、その献金を寄せ合える。それぞれのかけがえのない人生をもって、神様を見上げ、神様と目と目を合わせて、頷き合うことができる。

 本当にこの教会という場所の、何と美しい、素晴らしいことかと思います。ここに注がれている、神様の温かい眼差し。ここで起こっていることは、誰の目に留まらない本当に小さなことかもしれませんけれども、しかし神様の目には大きく映るのです。ここで今私たちが共に味わっている宝物のような恵みの時間、この恵みの訪れを、今心から感謝いたします。