2021年6月13日 ルカによる福音書21章5~19節 「こらえ至る命」
先週の21章初めの御言葉に、今で言えば100円玉2枚ほどの2レプトンを神殿に献金した貧しいやもめが出てきました。雑踏の中、一人エルサレム神殿に赴いて、音もなく2レプトンを捧げたやもめの指先と、その心を、主イエスの目はしっかりと見つめていて、それを分かっていてくださって、その献金を、誰よりも多く捧げた、と言って喜んで受け止めてくださいました。先週のやもめについての御言葉は、澄みわたった静寂に支配された、ひそやかですけれども、凛とした強さもそこに見える、とても印象深い御言葉でした。
先程お読みしました旧約聖書の詩編46編にも、その静けさ、静寂という言葉が出てきます。詩編46編は、10年前の東日本大震災とその大津波の衝撃が起こった時、全世界の教会で読まれた御言葉です。詩編46編の3節4節には、その震災を思わせる言葉があります。「46:3 わたしたちは決して恐れない/地が姿を変え/山々が揺らいで海の中に移るとも46:4 海の水が騒ぎ、沸き返り/その高ぶるさまに山々が震えるとも。〔セラ〕」しかし、地が姿を変え、山々が揺らいで海の中に移るとも、私たちは決して恐れないと言われています。その理由ははっきりしていて、それは、その前の2節が語りますように、「神は私たちの避けどころ、わたしたちの砦」となってくださり、「苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる」からです。には、そこで必ず、神様が助けてくださるからです。そして、詩編46編を書いた詩人は、だからこそ、11節の神様からの言葉を語り切ります。「力を捨てよ、知れ、わたしは神」と。そしてこの11節の、力を捨てよと翻訳されている言葉が、実は、静まる、という言葉。静寂の中で心を低くしている、という、英語で言えばそれは、有名なゴスペルソングのタイトルにもなっていますが、Stillという言葉です。be still、静かに落ち着いていなさい、という言葉。そしてその静かなたたずまいの具体例が、先週のやもめの姿だったわけで、主イエスは、あのやもめの姿を指示してくださった後に、その流れで、今朝の御言葉を語られます。
信仰者の強さとは何か?信仰を持つ人は、そうでない場合と違って、どういう面で強いのでしょうか?世間では、精神的に弱い人が、その弱さゆえに神様を奉ずるのだと思われてしまう節がありますが、しかし、現実に教会に集っておられる方々は、とても強い方々ばかりだと思います。そしてその強さとは、その人自身の強さではなく、本当に信仰によって強くされているという強さです。神様への信仰を持つ人の強さとは、天変地異の厄災が襲う時にも、また、自分の前に死が迫るような時にも、神様が共にいてくださることを信じるゆえに、慌てず動じないという、その強さなのだと思います。今のコロナウィルス禍も、とても大きな厄災ですけれども、しかし全ての人が震えが上がり、我を失うような災いの中にあっても、静まって、落ち着いていることができるのだとしたら、その落ち着きは、それは並の強さではありません。しかし信仰者には、その強さが宿るのです。
そのような厄災に常に翻弄されながら進む、この世界の危うさ儚さは、今も昔も同じです。やもめが献金を捧げたエルサレム神殿は、当時、それに並ぶ建築物はほかにないような、堅牢かつ巨大で豪華な神殿でしたので、その神殿が崩れ倒れるなどということは、当時の人には考えられないことで、もしそんなことが起こるとしたら、それこそ、その日はこの世界が滅び去る時に違いないと人々は考えていました。
しかし、実際にはこの言葉の40年後に起こったローマ軍による神殿の破壊を、主イエスは6節で、事も無げに言い当てておられます。それを聞いていた人たちはびっくりして、「そんなにものすごい世界の終わりが来ると言うのなら、その言葉が、ただのほら吹きではないことを証明する、その徴、その前兆を示す確かな根拠を示してくださいよ」と尋ねました。
その言葉に答えて主イエスは、8節から9節の言葉をまず語ってくださいました。そしてここに、徴と世の終わりに対する主イエスの基本的なお考えが明らかにされています。「21:8 イエスは言われた。「惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』とか、『時が近づいた』とか言うが、ついて行ってはならない。21:9 戦争とか暴動のことを聞いても、おびえてはならない。こういうことがまず起こるに決まっているが、世の終わりはすぐには来ないからである。」」
「どんな徴があるのですか」という問いかけに対して、主イエスは終末を示す徴があるというなら、それはまやかしだと、徴を否定されました。9節で言われているように、戦争や暴動のことを聞いても、怯えて動揺してはならない。「こういうことがまず起こるに決まっている」この言葉の意味は、戦争や暴動や厄災のというものは、それをもって時代の終わりだとかいうほどの大袈裟なものではなくて、そういうものはいつの時代にも必ずあるという、とても現実的な見解です。だから、主イエスの代弁者を名乗る者が大勢表れて、そういう、暴動、戦争、災害、社会的なニュース、そういうものを指さして、「見ろ、これが徴だ、ほら、だから終末は近いのだ」などと声を上げることが、今後無数に起こるだろうけれども、そういう者たちに惑わされることのないように気をつけなさいと、主イエスはおっしゃっています。
何かの社会的な世界史的な歴史や事件やニュースを、聖書の言葉に当てはめて、それを週末の徴だと吹聴する人々がいますが、そういう徴、また終末の前兆を何事かから読み取って、それに基づいて、終末に向かってのタイムスケジュールを、終末予言のような形で、人間に過ぎない私たちが、恣意的に組み立てるようなことの一切を、主イエスは、一貫して、否定しておられます。このルカによる福音書の、以前に読んだ11章29節の御言葉でも、お聞きくだされば結構ですが、主イエスはこうおっしゃっています。「11:29 群衆の数がますます増えてきたので、イエスは話し始められた。「今の時代の者たちはよこしまだ。しるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。」」ヨナのしるしとは、主イエスご自身の十字架と復活のことです。それは歴史の中心ともいえる、決定的な出来事ですが、それによって救いを受けるこの世界が、いつ終末の時を迎えるのかについては、それは神のみぞ知ることで、人はそれを予測できません。私は徴を見出だしたと吹聴して、それで人を振り回したり、その時はここで来るので、今は大丈夫だけれどもその時になったら急げとか、神様のスケジュールをまるでこちらが抑えた気になって振舞うようなことも、主イエスは、そのすべてをきっぱりと否定されています。
そして、今朝の後半部分で主イエスは、そんな徴探し云々の以前に、具体的な日常生活の中であなたがたが直面する、大きく分けて二つのことがあるので、それに対処することこそが、あなたがたの現実的な課題であると話されました。それが、今朝の12節から19節の御言葉です。
「21:12 しかし、これらのことがすべて起こる前に、人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために王や総督の前に引っ張って行く。21:13 それはあなたがたにとって証しをする機会となる。21:14 だから、前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい。21:15 どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授けるからである。21:16 あなたがたは親、兄弟、親族、友人にまで裏切られる。中には殺される者もいる。21:17
また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。21:18 しかし、あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない。21:19 忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。」」
天変地異や厄災もそうですが、そういう大きなことに勝って、日常的にあなたがたに対して起こることがある。それが、社会からの迫害と、親しい者たちによる裏切りだと、主イエスは言われました。
しかしなぜ主イエスは、私たちが迫害と裏切りに遭う、などというこんなに恐いことを、わざわざおっしゃるのでしょうか?それは、私たちがそこで、Stillの姿勢をとることができるようになるためです。自分の力を捨て、静かに落ち着いて、神様の前に心を低くして、反対に神様の力を知り、神様に支えられて、迫害や裏切りや厄災や戦争にさえも、動じることなく歩む。まさに信仰者の強さをもって、そこ立つためです。
確かに迫害や裏切りはあります。ありますが、しかし同時に、そこで私たちは、放っておかれません。詩編46編2節が語るように、「神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。」その神様の具体的な助けが、ルカ21章の14節と19節に、どちらも主イエスが非常に強く語り切っておられる命令形の言葉で記されています。
そこで14節、「21:14 だから、前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい。」この言葉は、意訳になっていますので、直訳しますと、「どう弁明すればいいのかと心配するな!」という言葉です。そして19節は、「揺るぎなく立ち、必ず命を勝ち取れ!」という言葉です。
迫害されて、吊し上げられ、追い詰められた時、「どう弁明すればいいのかと心配するな!」ということは、動揺しないで、そんな時にもぐらぐらしないで、神様がその口に言葉を登らせてくださるのを落ち着いて待てばいい。親しい者の裏切りに遭う時にも、しかし「揺るぎなく立ち、必ず命を勝ち取れ!」そんな時こそ、逆に静かに、神様を見上げて、その命へと進め。そういう主イエスの言葉であるのだと思います。
主イエスは聖書の中で20回近く、目を覚ましていなさい、と語られましたけれども、目を覚ましているとは、危機感に駆られて慌てふためいたり、エマージェンシーランプのように、赤いギラギラした目で警告を発することでもありません。目を覚ましているとは、危機を前にしても、目を神様にしっかり向けて、神様に信頼して、騒ぎ立てるのではなく、むしろその時にこそ、動揺せず、落ち着いて、静かでいられる姿勢のことです。
最後に、ひとつの御言葉を引きたいと思いますが、ペトロの手紙Ⅱの3章12節には、このような御言葉があります。「3:12 神の日の来るのを待ち望み、また、それが来るのを早めるようにすべきです。その日、天は焼け崩れ、自然界の諸要素は燃え尽き、熔け去ることでしょう。」
この御言葉が語るのは、そのように目を覚まして、落ち着いて、神様に信頼を置き、今日も与えられる神様の助けを待ち望んで生きている。そんな私たち信仰者の、この姿そのものが、恵みの終末の日を早めることさえもできるような、神がやがて来られるその日への、他にはない徴になっている。最終的には主の日が来るのを待ち望み、日々の心騒がせるようなことの只中でも、落ち着いて、今日もこうやって、一週間の始まりの主の日には共に礼拝を捧げつつ歩む。そういう私たち信仰者の存在自体が、神様がおられること、希望の主の日がこの先にあるのだということの、他ならない徴となり、証拠です。困難はありますし、心騒がせるようなことは常に起こりますけれども、しかし、静かに、希望をもって忍耐し、必ずや、死を超えた命に至る。Still。静まりつつ、力強く神を見上げて、神様と共に、主イエスと共に歩む。これが私たちの歩みです。