2021620日 ルカによる福音書212028節 「歴史の完成にむかって」

 このルカによる福音書は、紀元後60年に書かれたと考えられていますが、第二巻の使徒言行録と合わせて、これを書いたルカは、紀元後60年の時点での、キリスト教の全歴史を書き記すという、壮大なヴィジョンをもって、ルカによる福音書と使徒言行録を書いた歴史家です。そしてそのルカが、終末について、歴史の終わりについての主イエスの言葉を連続して詳しく記録している唯一無二の個所が、21章のこの部分の御言葉です。

主イエスがここで語られているように、世界の歴史には終わりがあります。「初めに神は天地を創造された。」この言葉から始まっている世界の時計の針は、11日を刻み始めました。そして初めがあるということは、同時に終わりもあるということです。

 聖書の時間概念には、仏教では輪廻と言われるような、初めも終わりもなく、ただ円循環的にぐるぐると回っているという時間ではなく、初めがあり、終わりがあります。時間は始めから終わりに向かって、一秒でも進みすぎたり、また後戻りもすることもなく、一直線に進んでいく。それが、神様がこの天地と一緒に創造してくださった、神様の造られた時間です。そして円循環の時間ではなくて、それが始まりと終わりのある一直線の時間だということは、時間には確かな方向性があり、目的があり、ゴールがあるということであり、それは、今私たちが過ごす一日一日も、次の明日を作るかけがえのない、意味ある土台になるということを意味します。

ということは、何を目指して、何のために、世界とこの自分の人生が始められたのか?そして今という時に、自分は何を目指して、何に向かって進んで行くべきなのか?ということへの、確かな答えがある、ということです。それに聖書は、はっきり答えています。

 

 皆様はこういう、歴史の完成とか、世界の終わりという言葉を口にしたり、耳にする時、どんなことを考えるでしょうか?そこで想定されている世界の終わりとは、どんなものでしょうか?そして、一般的に考えられている世界の終わり、それは破滅だと思います。普通に考えて、世界が今より良くなる要素が見当たりません。私はバブル崩壊後に育った、いわゆるロストジェネレーションですので、世界と社会と教会も、すべてがずっと下降線にあるのを眺めて生きてきましたので、世界が上昇して良くなっていくという将来を思い描くことに困難さを覚えますし、もし私が聖書を知らなかったら、私は確実に悲観論者、人類滅亡論者になっていたと思います。

 

 そして主イエスも、歴史の終わりについて、それを全く楽観的に見ておられるわけではありません。しかし、「そこにはそれなりの困難があるが、あなたがたは守られる。」これが主イエスのメッセージです。先週の御言葉の終わりの211819節にも、こういう御言葉がありました。21:18 しかし、あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない。21:19 忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。」

 

では歴史の終わりには、一体何が起こるのでしょうか?今朝の20節には、21:20エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら、その滅亡が近づいたことを悟りなさい。」という、かなり物騒な言葉があります。確かにそこには滅亡があります。しかし滅亡は、それが歴史の結論ではなく、いわば「生みの苦しみ」です。歴史が完成する際に、必ず除去されなければならないもの、それは罪と悪です。そして悪魔は、終末が近づくと、もう滅ぼされることが分かっていますから、一時的に盛んになり、最後の力を絞って、特に主を信じる者たちを欺き挫こうと、悪あがきをして破滅を呼び起こすのです。

 

エルサレムの町は、城壁に囲まれた、山の上にある城塞都市です。ですからユダヤ人たちは、紀元前の古来から、エルサレムこそが絶対的に安全な不動の都だと信じて、何かの危機が起こるときには、皆が我先にとエルサレムに逃げ込んだのでした。

けれども主イエスは、それと反対のことをせよと言われます。21節から23節です。21:21 そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。都の中にいる人々は、そこから立ち退きなさい。田舎にいる人々は都に入ってはならない。21:22 書かれていることがことごとく実現する報復の日だからである。21:23 それらの日には、身重の女と乳飲み子を持つ女は不幸だ。この地には大きな苦しみがあり、この民には神の怒りが下るからである。」

主イエスは、逃げろと言われました。その日は、神による罪の裁きと罪への報復の日であるから、主イエスは、あなたがたはそれに巻き込まれないように逃げなさい。エルサレムの都を捨てて、そこから離れなさいと言われました。同じことを記しているマタイによる福音書には、「屋上にいる者は、家にあるものを取り出そうとして下に降りてはならない。畑にいる者は、上着を取りに帰ってはならない。」とも言われています。

何か危機が生じた時に、私たちは裸で、丸腰で逃げることを恐れます。せめて貯金通帳だけでも、と咄嗟に思います。さらにそこで、みんなの逃げる方向の逆を行くというのは、難しいことです。強固な要塞エルサレム、人間が築いた都に逃げ込んで、その時こそきっと文明の力に頼りたいと思うでしょう。しかし、その危機において大事なのは、政治家やマスコミが叫ぶ声についていくことではなく、神の御言葉に信頼することです。エルサレムへの未練、みんながエルサレムに向かう中で、それに抗う勇気。とても根本的で、今の時代の私たちにも当てはまる、何を大切にするのか、最終的にどこに自分の命を預けるのかという、私たちの価値観を問う言葉です。

その中で主イエス・キリストは、私たちを、そこから逃げ延びさせてくださいます。世の終わりの破滅は、私たちを飲み込むものではありません。神様が逃げ切らせてくださるので、そこを信頼して、私たちはきっぱりと、着の身着のままで、逃げていい。神様はそこで、私たちを守ってくださいます。

 

そして、25節以下の今朝の後半部分に、歴史の終わりに起こる決定的なことが語られています。それは、25節の隣の太字の表題に既に書かれていることですが、「人の子が来る」ということです。「人の子」という言葉は、人間のかたちをした方という言葉ですが、その言葉で表されている主イエス・キリストが、歴史の終わりに、創世記から始まった歴史を、完成させてくださるために来られると約束されています。

その時起こることがまず、2526節に言われます。21:25 それから、太陽と月と星に徴が現れる。地上では海がどよめき荒れ狂うので、諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る。21:26 人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう。天体が揺り動かされるからである。」

26節の終わりの、天体が揺り動かされる、という言葉は天の諸々の力が振るいにかけられるという言葉です。ちょうどザルでなにかを振るいにかけるように、世の終わりは、決してこの地球だけにとどまらない、天体をも巻き込む宇宙大のすべての事柄が、振るいにかけられる。本当に、単なるエルサレムの都がどうこうとか、地震や疫病や津波どころの騒ぎではなく、すべての天の諸力が揺り動かされて、取り除くべきものは取り除かれ、しかしそこで、残るべきものは残るのです。

そして、人々が、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失う。しかしながらその一方で、何よりもこれが起こる。それが27節です。21:27 そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。」

その時に、人の子、イエス・キリストが、大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。

歴史が最後の完成を見る時、主イエスはクリスマスの生誕のように、再び、幼子ではない主イエス・キリストが、天からこの地上に来られます。そして、すべての人々がそれを見る。その時、終わりの日に、私たちは、それぞれ何をしているか分かりません。天体が揺り動かされますので、この街にいるかもしれませんし、主イエスは、逃げよと言われましたので、どこかで逃げまどっているかもしれませんし、山の中に籠って耐えているかもしれませんし、教会の片隅でひっそり身を寄せ合っているかもしれない。もう既に天に召されているかもしれません。けれども、そのような私たちのすべてが、それぞれの場所から、その時のあるがままの状態で、人の子、主イエス・キリストを見る。つまり主イエスに出会うのです。

だから、28節、21:28 このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ。」

身を起して頭を上げるという言葉を、姿勢を正してこうべをあげる、と訳している翻訳もあります。これはどういうことなのでしょうか?今朝の御言葉から少し先の、36節に、こうあります。21:36 しかし、あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい。」

いつ人の子が来てもよいように、その前に立つことができるように、いつも目を覚まして、祈りなさい。目を覚まして祈りなさいと言われれていますので、目を覚ましているということは、単純に瞼を閉じないということではなくて、時には目を閉じて祈りつつも、しかし心の目はいつも開いていて、心ではいつも人の子を見て、主イエスの到来に備えている。それを待ち望んでいるという、これは信仰的な開眼のことを語っています。

これはどういうことなのか?15年前に天に召された、カトリックの司祭ヘンリーナウエンは、その死に至る前の10年間、知的障碍を持つ方が集まる施設で働き、そこで、その重い障害のために一言も言葉を話すことができず、いつてんかんの発作が起こって死んでしまうとも分からない、25歳のアダムという青年と出会って、専ら彼の介護にいそしみました。そのアダムとの関わりを記した書物に、ナウエンは次のように記しています。

アダムは美しい男だった。彼は輝くような内なる光を持っていた。それは神のものであった。彼には自分の内なる空間を満たす、気晴らしや執着や野心がほとんどなかった。したがって、アダムは、神のために心を空しくする霊的訓練を行う必要がなかった。いわゆる「障がい」によって、それを既に授かっていたのだった。

イエスは生きている間に大したことを成し遂げなかった。彼は失敗者として死んだ。アダムもまた大したことを成し遂げなかった。彼は生まれたときと同じ貧しさの中で死んだ。にもかかわらず、イエスもアダムも共に神の愛する子だった。アダムは極めて単純に、静かに、そして独自の仕方でそこにいた。彼はまさに自分の生そのものによって、素晴らしい神の神秘、すなわち「わたしは神から生まれた、尊い、完全な、愛された子だ」という神秘を告げ知らせる人だった。

イエスは、インマヌエル、「神はわれらと共にいます」だった。アダムはわたしにとって神聖な人、聖者、生ける神の似姿となったのである。

アダムは自分の破れを通して、神の愛を証しするように選ばれたのだと私は思っている。こう言ったからといって、彼を美化するわけでも感傷的になっているわけでもない。その弱さにおいて、彼は比類のない神の恵みの道具となった。アダムの透明性のおかげで、のちに私たちは、神の無条件の愛の一端に気が付くようになり、わたしたちも彼のように恵まれ、愛されている神の貴重な子供であることを理解できるようになった。

ヘンリ・ナウエン『アダム:神の愛する子』(日本キリスト教団出版局、2020年)より

心の目が、いつも人の子を見て、主イエスの到来に備えている。それを待ち望んでいるという、それは信仰的開眼とはこのことだろうと思います。自分では話すこともできず、何もできなかったけれども、しかしその分、全く神様に依存し、主イエスに頼って、透明な心で、身を起して主イエスを見上げる。このアダムのような人こそが、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、決してよそ見せず、それによって不意を突かれることもなく、喜びと共に主イエスを待ち望み、主イエスと出会うことができる人ではないかと思いました。

 

終末は、この主イエス・キリスト抜きでは、決して考えられません。キリスト抜きの終末は、ただの破滅ですが、そういう歴史の終わりはありません。この歴史は、必ず最後に主イエスで終わる。主イエス・キリストが、かたを付けてくださる。ですから、その歴史の完成に向けて進む今日この時に、私たちそれぞれの人生において必要なことは、主イエス・キリストを見上げるというこの一点において、はっきりと目を覚ますことです。

キリストが再び来られる時、主イエスが私たちに問いかけてこられるのは、「あなたはこれまでどんな仕事をしてきたのですか?どんな地位を得ましたから?どれぐらいの実績をあげましたか?名刺を何枚持っていて、何人の人があなたの名刺を大事に持っているでしょうか?」という質問ではありません。主イエスがその時、問うて来られるのは、「あなたはわたしを知っていますか?」という質問です。

そして、「はい」と答える私たちに、主イエスは、「あなたは神に愛されている、神の大切な子供だ」と、言ってくださいます。

私たちの人生と、この世界の歴史のすべては、主イエス・キリストとの出会い、というその最後の一点に向けられています。なんと明るい、なんと温かで、希望と慰めに満ちた、ゴールでしょうか。