2021年6月27日 ルカによる福音書21章29~38節 「神が約束を果たす」
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」という言葉で有名なテサロニケの信徒への手紙一の5章には、その有名な言葉の直前の5章2節4節に、「2節:盗人が夜やって来るように、主の日は来るということを、あなたがた自身よく知っているからです。4節:しかし、兄弟たち、あなたがたは暗闇の中にいるのではありません。ですから、主の日が、盗人のように突然あなたがたを襲うことはないのです。」という御言葉があります。
泥棒は、夜、まさかこの時間に侵入者はやってこないだろうという時間に、突然、こちらの不意を突いて、隙をついてやってくるものです。主の日は、終末の日は、そのようにしてやってくる。しかし、あなたがたは暗闇の中にいるのではないので、主の日が、盗人のように突然あなたがたを襲うことはない、と言われています。
心配はいりません。私たちには、そういう風に主の日が突然に、不意に襲うことはありません。この私たちは、暗闇の中にいるのではなく、主イエス・キリストの光の中を歩んでいますので、主の日が盗人のように突然襲うことはありません。私たちは主の日に起こる、主イエス・キリストの到来を、不意を突かれてではなく、きちっと、膝をそろえて、腰に帯をして、いらっしゃいませと、ずっとお待ちしておりましたと、ちゃんとお迎えすることができます。
そして、今朝のルカによる福音書の御言葉には、具体的にどのようにすることが、不意を突かれないことになるか、主イエスの到来を闇にまぎれた盗人としてではなく、待ちに待った大事なお客様としてお迎えするには、どうしたらよいのかということが、具体的に記されています。
このルカによる福音書21章には、ずっと終末についてのことが連続して語られています。その意味でこれは、ルカの黙示録と呼んでもよいような御言葉ですけれども、この終末論についてまとまって書き記すルカ福音書によるその語りの主旋律は、今この時に、あなたがたは、惑わされないで、動揺しないで、静まっていなさいという、still、という落ち着いた姿勢で歩みなさいというメッセージです。
このルカによる福音書を書いたルカは、歴史家だったと先週申しました。この福音書が書かれたのは、およそ紀元後60年代半ば頃ではないかと言われています。それは、紀元前2~3年にお生まれになった主イエスが、およそ33歳で十字架に架かって死なれ、そして、再び私はこの地上に再臨すると約束されて天に昇って行かれた、それもルカが書き残しました、使徒言行録の最初に書かれている主イエス・キリストの昇天の出来事が起こってから、その約30年数年後のことです。
説教の冒頭で引用したテサロニケの信徒への手紙は、使徒パウロが最初期に書き記した手紙で、それは紀元後50年初頭という、ルカがルカ福音書を書くよりも15年ほど早い段階で書かれた手紙です。そこには、それは主イエスの昇天の20年後ですから、もうすぐにでも主の日が来るのではないか、それは盗人が夜に押し入ってくるようにして、急にでも訪れうるという切迫感が強く書き表されています。しかし、そのさらに15年以上後の、紀元後60年代半ばの時点でのキリスト教の全歴史をまとめたルカは、主イエスが昇天されて、ペンテコステに聖霊が与えられて、使徒たちによってキリスト教会が建て上げられて、それが世界中に広がっていくという、使徒パウロの死までを見据えた使徒言行録の終わりまでをすべて記録しながら、そして、このルカによる福音書21章9節でも、「世の終わりはすぐには来ない」と書き表しながら、主の日はいつ来るか?それを今か今かと居ても立っても居られない状態で待つのではなく、主の日が必ず来ることにはしっかり心を留めておきながらも、しかしむしろ、ルカはもっと先を見つめながら、今という時を落ち着いて生きるべきことを、主イエスの口を通して、一貫して伝えています。
今朝の御言葉の29節30節には、いちじくの木のことが出てきます。「21:29 それから、イエスはたとえを話された。「いちじくの木や、ほかのすべての木を見なさい。21:30 葉が出始めると、それを見て、既に夏の近づいたことがおのずと分かる。」
そこの教会の裏にあるいちじくの木には、今は2センチぐらいの小さな実がたくさんついています。そこに確実な季節の移り変わりを見えるように、神の国の近づきを敏感に察知しなさいと言われています。それを察知していないとどうなるか?それが今朝の34節からのところに言われています。
「21:34 「放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい。さもないと、その日が不意に罠のようにあなたがたを襲うことになる。21:35 その日は、地の表のあらゆる所に住む人々すべてに襲いかかるからである。」」
先程の、夜中に泥棒に入られる時の不意打ち、という意味のことが言われています。ルカは「世の終わりはすぐには来ない」と書き記しましたが、確かに、今はさらにそこから、約2千年も経ってしまっています。危機感がなくなる。主イエスが、またこの地上に来てくださるという約束は本当なのだろうか?という気持ちの緩みがくる。放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くなるとは、それは、怠惰や生活の思い煩いや、神のことを思わない私たちの自己中心性によって、主イエス・キリストが見えなくなるということ、主イエス・キリストのことを考えなくなるということです。
ではどうしたらいいのか?説教冒頭でもお話しした、主イエス・キリストの到来を、不意を突かれてではなく、きちっと、膝と両手を揃えて、いらっしゃいませとお迎えするために、何をすればよいのでしょうか?
この問いへの答えとして、今朝の私たちの御言葉を通して、とても大切な3つのことが言われています。
一つは、御言葉を頼みとするということです。32節33節です。「21:32 はっきり言っておく。すべてのことが起こるまでは、この時代は決して滅びない。21:33 天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」
天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。なんと力強い言葉でしょうか。この世界以上に、この天地以上に強いのが主イエス・キリストの御言葉です。その約束の言葉です。「わたしは世の光である」と仰った主イエスの、その御言葉を心に宿す人は、その人の存在そのものが、世の光となって輝きます。パウロの先程のテサロニケの手紙で語りました。「しかし、兄弟たち、あなたがたは暗闇の中にいるのではありません。ですから、主の日が、盗人のように突然あなたがたを襲うことはないのです。」
色々な言葉が、情報が、ニュースが氾濫している私たちの日常ですが、どこの誰の言葉を頼みとするのかで、人生は丸ごと変わってしまいます。
そして、主イエスをきちんとお迎えするために必要な二つめのことは、祈りです。36節37節です。「「21:36 しかし、あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい。」21:37 それからイエスは、日中は神殿の境内で教え、夜は出て行って「オリーブ畑」と呼ばれる山で過ごされた。」
絶えず祈りなさいという、テサロニケの御言葉に似た、いつも目を覚まして祈りなさい、との主イエスの言葉があります。もちろんこれは、睡眠を取ってはいけないという教えではなく、いつも主イエスと、オンラインで繋がっていなさい。そういう意味で主イエス・キリストに対して、いつも心が向かっている。心の、魂の目が開かれているということです。主イエスにとって祈りとは、単に願いを申し述べることではなくて、神様とオンラインで繋がるようにして、神様の一緒にいる時間を味わうこと。神様の御存在の中に静かに身を浸すことでした。
そして大切な三つめのことは、礼拝です。38節にこうあります。「21:38 民衆は皆、話を聞こうとして、神殿の境内にいるイエスのもとに朝早くから集まって来た。」
「人々は皆、神殿で主イエスの言葉を聞くために、とても朝早くに起き続けた。」という、これは、継続的にこの全ての人々による早起きと、朝の神殿詣でがずっと続けられていくという言葉です。実際にはこの時は十字架の前日であり、相当タイトな時間が主イエスの周りには流れていたはずですが、ここには毎日繰り返して、朝から人々が神殿に集まり、主イエスは神殿で日中は教えて、夜はオリーブ山にて祈られたという、ある種のルーティーンが語られています。
つまりルカ福音書は、この時ばかりではない、その後の、この私たちの教会も、主イエス・キリストの訪れを待ちながら、世々続けていくべきこととして、毎日の礼拝と、祈りと、主イエスの御言葉の聞き続けること、この三つの大切な信仰者の生きる基盤を、ここに書き記しているのです。そして、これこそが、目を覚ましているということであり、御言葉、祈り、礼拝こそが、揺るがず、落ち着いて、様々なことが起こり来るこの時代を、主イエスの光を帯びて、主イエスの再臨を待ち望みながら、力強く歩み抜く術です。
そしてこのこととは、私たちにとって、とりわけ特別なことではなくて、いつもしていることです。どうしたら、盗人に会うようにではなく、主イエスをきちんとお迎えできて、主イエスにきちんとお会いできるのか?それは主イエス・キリストが私たちに備え、教会を通してしっかりと与え、そこに私たちを生かしてくださっている、御言葉と祈りと礼拝によって建て上げられるこの信仰生活、この教会生活を、これまで通り、お互いに支え合いながら、落ち着いて、深めていく。そこにおいて動じないということが、何よりも目を覚まして歩むという道ですし、それゆえに主イエスの生きた導きをいつも近くに受け取り知りながら、主イエスに目を開かれて歩む道です。
礼拝は、終末の予行演習です。今朝の御言葉にありましたように、私たちも今この教会で、この朝早くに会堂に集まり、主イエスの御言葉を聴き、それによって主イエスに出会っています。この場所で、天の神様と、神の右におられる主イエス・キリストに礼拝を捧げることは、それは、この地上にありながら、天国を垣間見るということです。ここで私たちは、この地上にありながらも、天国での永遠の命に触れる。この地上にありながらも、私たちが死んでからのちに昇って行く、天国における神様との完全な交わりの一端を、心の目を開かれながら垣間見て、それを先取りするのです。有限なる私たちが、永遠無限なる神様に触れる瞬間、それが礼拝です。まさにここで起こっていることは、終末論的な、世の終わりに、主の日にこそ起こるような神様との出会いであり、その終末の日に起こる主イエス・キリストとの出会いが、しかしここで今、起こっているのです。
今の政治と、マスコミに囲まれて、この社会の中に生きていると、約束という言葉が、本当に力を持たない、空疎な言葉になってしまっていることをに残念さを感じますが、「しかし、兄弟たち、あなたがたは暗闇の中にいるのではありません。ですから、主の日が、盗人のように突然あなたがたを襲うことはない。」そして、主イエスは、「天地は滅びても、わたしの言葉は決して滅びないと」約束してくださいました。神様は約束を必ず果たしてくださる。この聖書の言葉を頼りにする私たちを、神様は決して裏切ることなく、この聖書の言葉も、決してこの私たちの裏切ることなく、永遠に滅びない言葉として、これからも私たちを支え、導いてくれる。
だから私たちは、終末、世の終わりを恐れる必要は全くありません。その時、天から私たちに会いに来てくださるのは、私たちが今礼拝を捧げている方。その時に来られるのは、私たちの愛する、また私たちを愛してくださる、この主イエス・キリストだからです。