2021年7月4日 ルカによる福音書22章1~15節 「あなたを願う」
今朝の御言葉には福音が語られています。主イエス・キリストというお方の愛が、この御言葉からは痛いほど伝わってきて、溢れ出ています。
この御言葉では、あの主イエス・キリストが十字架に架かられる前の夜の、最後の晩餐が行われる、その直前の状況が、事細かに描写されています。そして今朝のこの御言葉において問題になっていることは、主イエスを裏切って、金で主イエスを売ってしまった、12弟子のひとりのユダを巡ってのことです。
祭司長や律法学者たちは、前々から主イエスを殺そうと企んでいました。しかし、主イエスは群衆に親しまれていて、人気がありましたので、彼らも迂闊に手を出せずにいました。もし迂闊に、また強引に主イエスを捕まえるようなことをしたら、逆に彼等の身が危なくなるような状況だったからでした。ですので、このまま行けば主イエスが十字架に架かられるということは容易には起こらなかったはずです。しかし十字架の数日前に事態が急変します。
3節から6節をお読みします。「22:3 しかし、十二人の中の一人で、イスカリオテと呼ばれるユダの中に、サタンが入った。22:4 ユダは祭司長たちや神殿守衛長たちのもとに行き、どのようにしてイエスを引き渡そうかと相談をもちかけた。22:5 彼らは喜び、ユダに金を与えることに決めた。22:6 ユダは承諾して、群衆のいないときにイエスを引き渡そうと、良い機会をねらっていた。」
イスカリオテと呼ばれるユダの中に、サタンが入った。サタンが入った、という言葉を書き記しているのは、福音書の中でも、このルカだけです。何か、サタンがすっと、急に、にゅっと、ユダの中に入る。まるで私たち読者が近くにいて、その場面を、その瞬間を見てしまったかのような、そんなリアリティーのある描き方で書かれています。
そうしたらユダはどうなったか?ユダは祭司長たちや神殿守衛長たちのもとに行き、どのようにしてイエスを引き渡そうかと相談をもちかけた。4節の、引き渡すというこの言葉は、裏切ると訳すことのできる言葉です。そして同じ言葉が、6節にも繰り返されています。
サタンに入られて、どうやってイエスを裏切るか、どうやったらそれができるかを相談に行くユダ。喜んで勢い込む反対者たち。そして5節にありますように、彼らは喜び、ユダに金を与えることに決めた。その後のユダは6節「ユダは承諾して、群衆のいないときにイエスを引き渡そうと、良い機会をねらっていた。」
なぜ、12弟子の一人で、率先して主イエスの身の安全を守るべきユダが、急に、その真逆のことをするのか?
色々な聖書研究者、文学者、小説家が、なぜこの時ユダが裏切ったのかについて、様々に想像を働かせて、もっともらしい理由を引き出そうとしたり、この事の背後には、こういう伏線、シナリオがあったのではないかなどと、様々に考えてきました。
しかし、ユダの裏切りの理由を、聖書は明確に記しません。ひとつ語られていることがあるとすれば、それはただ、お金です。しかし、納得できません。これによってユダに支払われた額は、マタイ福音書によれば、それは銀貨30枚でした。これはせいぜい1か月分の平均的な給料分ぐらいではないかと考えられています。ユダは、たった12人しかいない主イエスの弟子の中の一人として、この時までおよそ3年間、主イエスのためにすべてを投げ打って、主イエスと寝食を共にして仕えて来たわけです。しかし彼は、ここで、本当にわずかなお金のために、主イエスを突然裏切る。ユダは弟子の中でもインテリで、弟子たちの会計担当者であったユダは、銀貨30枚がどうしても必要なほど貧しかったわけではありません。だからこそ、なんでこうなるのか?どう考えても、説明がつきません。やっていることの釣り合っていない。せっかく今まで…。何のために今まで…。筋が通らず、納得がいきません。ユダは、自分自身でも、自分のしていることが何なのか、分かっていなかったと思います。これをやったら、恐ろしい十字架に主イエスがすぐに架かれてしまって、死ぬことになってしまうというこの後の展開も、この時のユダには全く見えていませんでした。
しかし、こんなめちゃくちゃなことをするユダを、自分でも自分が分からず、すべてを台無しにしてしまうユダを、ただ主イエスだけは、分かっておられました。ユダの名前がこの22章に来る前に出ていたのは、6章です。そこでは主イエスが、祈るために山に登り、朝まで徹夜で祈って熟慮されて、12人を選んで、彼らを使徒と名付けられました。その場面の6章16節に、「それに、のちに裏切り者となったイスカリオテのユダ」という言葉がしっかり語られています。のちに裏切り者となるイスカリオテのユダを、裏切る前提のユダを、主イエスは大切な弟子の一人として敢えて選ばれ、これまで共に歩んで来られました。
今朝の7節から13節の御言葉は、これは、6節にあるように、群衆のいないときにイエスを引き渡そうと、良い機会を狙っているユダを撒くための、ユダに、裏切る機会を与えさせないための、主イエスの策です。なぜそうと分かるのか、今朝はこの部分を詳しく読む必要があるのですが、主イエスを捕まえるには、主イエスを取り囲む群衆がいない時が狙い目であり、それは明らかに食事中、特に誰もがこの時期に行う過越しの祭りの記念の食事の時が、その一番のチャンスと見込まれていました。ですので、その過越しの晩餐の場面を抑えれば、確実に主イエスを捕らえることができます。そしてユダは主イエスを裏切るスパイとして、その過越しの食事の場所を特定しようと探っていたのです。
けれども主イエスは、8節にありますように、ペトロとヨハネを指名して、「行って過越しの食事ができるように準備しなさい」と言われました。他の福音書には、この部分に、「弟子たち」という言葉が使われていまして、遣わされる弟子たちが、複数であることは確実ですが、それが何人なのかは定かでありません。ルカ以外の福音書では、不特定多数の、もしかしたらユダも含まれる可能性のあるような、そういう弟子たちの集団が、過越しの食事の場所を探しに出ていったとなっています。しかしこのルカによる福音書では、13節の冒頭にもそう書かれていますが、ペトロとヨハネの二人だけ、そういう名前付きの最小限の人員が差し向けられています。
そして9節の言葉も特徴的です。これも他の福音書にはない言葉ですが、二人が、「どこに用意いたしましょうか」と尋ねています。つまり、この時点で、どこでその食事を催すのか、まったく、どこらへんの地域なのかという、大体の場所の目星も、皆目ついていない、弟子は二人とも、どこなのかということが全く分かっていない。ノーアイデアだったという点が、この言葉によって強調されています。
さらに10節から12節で主イエスは指示を二人に与えられます。「22:10 イエスは言われた。「都に入ると、水がめを運んでいる男に出会う。その人が入る家までついて行き、22:11 家の主人にはこう言いなさい。『先生が、「弟子たちと一緒に過越の食事をする部屋はどこか」とあなたに言っています。』22:12 すると、席の整った二階の広間を見せてくれるから、そこに準備をしておきなさい。」」
例えばマタイによる福音書ですと、もう出発の時点で主イエスが、もしかしたらそこで聞き耳を立てているユダに聞こえてしまうような形で、「都のあの人のところに行って、こう言いなさい」と指示しておられるのですが、このルカによる福音書では、男に出会ったら、その人が入る家までついていきなさいと、そして家に入ったら、そこの主人に交渉しなさいと、本当にギリギリまで、2人がどこの家に行って、誰と交渉するかも、実際に指示通りに行ってみて、現場に立ってみないと分からないかたちになっています。
さらに、何かお宅訪問のテレビ番組で、家の間取りを確認しているような進行具合で、主人と話したら、席の整った二階の広間を見せてくれるから、そこに準備しておきなさいと。決して建物の一階の部屋ではない訳です。外からはすぐには見えない。家の中の奥に入って行って、階段を登って、上に上がってみないと、その席の整った広い部屋は目の前には見えてこない、というかたちです。こういう指示を主イエスはペトロとヨハネに出される。主イエスはこれを、他の弟子たちの前でということではなくて、ペトロとヨハネの2人を特別に指名して、きっと2人だけを呼び出して、2人にだけ語っておられる様子です。仮にこの指示出しをユダが密かに聞いていても、この指示ではその部屋の場所は割り出せない。そして、指示を受けながらも、全く場所が分からないままスタートして行った2人は、13節「22:13 二人が行ってみると、イエスが言われたとおりだったので、過越の食事を準備した。」この13節の、言われた通りだった、と訳されている言葉には、ギリシャ語で、エウロンという、見つけた、意味が分かった、合点がいった、という言葉が隠れています。これもマタイ福音書にはない言葉です。つまり2人がそこに行って、現地で初めて、ああ、ここかと分かった。そして二人だけで、食事の準備をした。
食事の準備に関する主イエスの、この異常に長い指示出しの言葉を詳しく見ましたけれども、一体なぜ、主イエスは、こんなことをされるのでしょうか?その答えを示すのが、15節の主エスの言葉です。そしてこれも、他の福音書には書かれていない、このルカによる福音書だけが書き記している言葉です。「22:15 イエスは言われた。「苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、わたしは切に願っていた。」
苦しみを受ける前に、十字架に架かる前に、あなたがたと共に、この過越しの食事をしたいと、切に願っていた。切に願っていたという訳語の裏には、長い間、強く、願い望むという意味の、エピスーミア、エピスーメーサという、同じ意味の同じような言葉が、二つ連続して語られて、この願っていた、という主張がとても強調されています。
つまり、この過越しの食事に、最後の晩餐に、ユダも一緒に入れたかった。主イエスは、最後の晩餐の食卓を、誰にも邪魔されずに、ユダも含めた12弟子の全員と一緒に、なんとしてでも囲みたかった。それをせずには決して死ねないと、主イエスは強く思っておられた。
つまり、最後の晩餐が終わった後に捕まり、次の日の正午には十字架の上で体を引き裂かれる主イエスが、その御自分のことを棚に上げて、ずっと見ておられ、ずっと考えてくださっていたのは、ユダのことだった。この時だけでなく、いや、最初に出会った時からずっと、主イエスはこの日に起こるユダの裏切りを知っておられて、裏切るユダを、「裏切り者にはその資格はない」、「そんな奴は御免だ」、ではなく、「裏切り者だからこそ、最後の晩餐の席に着かせたい。そういうユダからこそ、この最後の晩餐の席に着かせないわけにはいかない」と。主イエスは、自分を金で売ってしまうユダを、残念に思い、不憫に思い、しかし愛し、招き、誰よりもそのユダにこそ、ユダのためにも裂かれたわたしの体、ユダのためにも流されたわたしの血、そのパンとぶどう酒を、与えないわけにはいかなかった。
このあとで、主イエスに裏切りの手を下すユダだからこそ、その罪の赦しのために、そのサタンの力を乗り越えるために、十字架で裂かれる主イエスの肉と血とが、絶対に必要だったのです。
私たちは、それぞれ、どんな一週間を過ごしてきたでしょうか?そこに裏切りはあったでしょうか?主イエスを裏切ったことのないような人は、ここには一人もいませんし、これから主イエスを決して裏切らないという人も、ここにはいません。いつサタンに入られるやもしれない、そういう弱く、よこしまなこの自分が恐ろしい、自分が怖い、そういう思いも、私たちにはあり、もしかしたら、天におられる主イエスの目には、私たちにも今後サタンが入り、主イエスを裏切るのだということが、既に見えておられるのかもしれません。
けれども、どうでしょうか?今何がここで起こっているでしょうか?私たちの目の前にも、今、主イエスの御体と、その血を表すパンとぶどう酒が、弟子たちの前に置かれていたように、ここに置かれています。「あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、わたしは切に願っている」と、主イエスは、この私たち一人一人のことも、そのあなたのことも、だからこそ、この席について欲しいと、今日この時を、ずっと以前から願ってくださっていた。だから私たちは今日、この教会の聖餐卓の前にまで導かれたのです。
神を裏切ったら終わり、ではありません。私たちが何度裏切っても、裏切る私のために引き裂かれた、主イエスが与えてくださるパンとぶどう酒に、主イエスは何度も、わたしを招いてくださり、この場所に呼んでくださり、この聖餐式の席にあなたが着くことを、主イエスは強く願っていてくださいます。この私の多くの裏切りよりも、もっと強く大きいのが、あなたを願う神様の愛です。
祈り
神様、魔がさすような時、普通では考えられないような罪を、私たちは犯してしまいます。大きな過ちを犯すことから、私たちを守ってください。けれどもそういう私たちを、あなたを裏切ることまで見越して、あなたは受け入れ、愛し、赦してくださいます。なんという深い愛でしょうか。その愛で私たちをなお生かし、保ち、あなたを裏切り、またお互い同士をも裏切る、この私たちを、決してバラバラにせずに、あなたの愛と赦しで、一つにしてください。サタンの力よりも強いあなたの愛で、どうか見捨てず、あなたが共に歩んでください。委ねて、主のみ名によって祈ります。