2021711日 ルカによる福音書221323節 「その命は誰のために」

 コンツェルマンというドイツの神学者が、このルカによる福音書の研究をして、その成果を「時の中心」というタイトルの本にして、今からおよそ半世紀前に出版しました。世界中で読まれた新約聖書学の金字塔ですが、「時の中心」、これは一度聞いたら忘れられないタイトルです。「時の中心」とは、言うまでもなく、主イエス・キリストのことを表している言葉です。そして時の中心である主イエスの生涯のさらなる中心は、十字架です。

 今朝は、その「時の中心」である十字架の前日の夜の、最後の晩餐の場面の御言葉が読まれましたが、ここには、私たちそれぞれにとっての、これぞ「人生の中心」、と言えることが、語られています。

 

 今朝のキーワードは、新しい契約という言葉です。契約とは、約束とも訳すことのできる言葉ですが、この言葉は、この聖書の始めから終わりまでを貫いて、聖書がずっと一貫して語っている言葉であり、事柄です。 そして、聖書が語る契約は、必ずそこに命がかかっている契約であり、そこでその命は、聖書で命を表しているものによって、つまり血によって表されます。

 聖書の中での最初の契約、それはアダムとイブと神様の間に交わされた、「もしエデンの園の中央の実を食べるとあなたは死んでしまう」という、命に係わる、それを破ると死を招く契約でした。

 そのあと、カインが弟のアベルを殺してしまった時、神様はカインに、「何ということをしたのか。お前の弟の血が、土の中からわたしに向かって叫んでいる」と言われました。殺されてしまって地面に流されたアベルの血の中に、アベルの命があるかのような言い方です。

 さらにノアは、ノアとのその家族のたった8人だけが洪水から命を守られて生き延び、ようやく水が引けて箱舟から地上に降り立った時、祭壇を築いて動物を屠って犠牲を捧げました。

またモーセは、人が神様の前で罪赦されて、罰せられずに生きていくための、罪を贖う契約の儀式で、動物を屠ってその血を礼拝の祭壇に振りかけながら、「見よ、これは主があなたたちと結ばれた契約の血である。」と語りました。

 聖書の話は始めから、ずっとこのかたちで進行します。神様と人の間の契約は、死すべき罪を神の前に侵す人間が、いかに罪赦されて生きることができるのかという、すべては人間が生きていくための、命のための契約です。そしてその命は、血によって表されました。

 つまり、人が今生きていて、生きながらえる命があるということは、そのために血を流した、自分より先にあった他の命の犠牲がある。自分が今生きているということは、命のバトンが、不思議なかたちでこの自分に回ってきて、命がこの自分にどこからか手渡されたということなのだ、と考えることができると思います。

 

 秋になるとよくテレビでやっている、鮭の産卵シーンを思い出しました。生涯の最後の力を振り絞って、傷だらけの体になりながら、河の上流を目指す鮭、産卵場所に辿り着いて、そこに卵を産み付けたら、その瞬間から次々に力尽きて死んでしまう。しかしその死骸が、やがて卵からかえる稚魚の栄養になる。鮭のこの命の引き渡し方、受け継ぎ方は、痛いぐらいに露骨で実直です。自分が生き延びて長生きするよりも、命を次に託すということの方が、そこではずっと大切なこととされている。

 でも人間にもそういう面があり、聖書も、契約ということによって、命のそういう面を語っているのです。一人の人が死なずに生きるためには、旧約聖書ではそのために動物の犠牲が捧げられましたが、ある命が生きるためには、必ず代わりに血を流して死ぬ命が必要とされる、そういう契約で、そういう約束、決まり事で、命は維持されるということになっている。

 

 しかし、その旧約聖書の、旧い命への契約が、新約聖書になって、新約という、新しい約束の時代になって、そして「時の中心」である主イエス・キリストの到来によって、全く新しい契約になりました。

 今朝の御言葉にはこうあります。改めて、今朝の19節から20節をお読みいたします。

22:19 それから、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。」22:20 食事を終えてから、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。」

 「あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。」ほかの誰の血によるのでもない、主イエス・キリストの血による、新しい契約。それが、聖餐式の杯であった。

 

 その新しい契約とは、どんな内容の契約なのか?それを、預言者エレミヤは主イエスの生まれられる約600年前に、既に言い当てていました。

 エレミヤ書の3131節からを改めてお読みします。31:31 見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。31:32 この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。31:33 しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。31:34 そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。」

 律法は神の生きた言葉ですから、それは聖なるものであり、またその律法は神様御自身でもあるとも言うことができます。旧い契約では、絶えず動物の血が流され、その命が犠牲として捧げられてきましたが、契約が新しくなった。それによって命の与えられ方が、新しくなった。動物の犠牲ではなく、主イエス・キリストの血による、新しい契約が与えられた。主イエス・キリストの血は、律法を、この胸の中に授け、心にそれを記す。もはや動物犠牲ではなく、十字架に架かられた主イエスの御言葉がこの私の耳から入り、胸に注入され、心に記される時、神様は私たちの神となり、私たちは神の民となる。つまりそこで、命が入ってくる。新約聖書にあるのは、この、私たちの胸の中で、この心で起こる、新しい契約です。

 

 「主イエスは、パンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き」言われました。「取って食べなさい。これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。」訳がまどろっこしいでが、英語でしたら、take! eat! this is my Body!になります。

 そして、杯も同じようにして言われました。先程の20節です。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。」毎度、聖餐式で繰り返される言葉ですので、私たちはこの言葉に対する驚きを失ってしまってはいないでしょうか?もちろんカップに入っているのは葡萄ジュースであり、本物の血液ではありませんが、しかし明らかに主イエスはここで、「私の血を飲め」と言っておられます。「あなたがたのために流される、私の血による新しい契約が、この杯の中にある。だから今これを、取って飲め!」と。

聖餐式で葡萄ジュースを飲み干す、その瞬間、もし私があなたの喉を指差して、「あなたが飲んでいるそれはキリストの血だ」と叫んだら、誰でもドキッとすると思います。しかし、聖餐式で起こっていることは、それぐらいのとても違和感のあることで、それは私たちの理解を超えています。

 2000年前にエルサレムの町外れの十字架で起こったことは、私たちと神様を永遠に切れない新しい契約の関係に入れるだけの力あることで、もう私たちはキリストの血以外の犠牲を必要とせず、それでずっと永遠に尽きない命の中に入れられて、その命からは決して落ちません。この主イエス・キリストを受けるだけでいい。聖餐式は、洗礼式と並んで主イエスが残してくださった、唯二つだけの、主イエスの目に見える遺産です。そして、この洗礼と聖餐だけで完璧で、十分なのです。

 エレミヤは、紀元前600年の時点では、まだそこまで詳しくは分からず、主イエス・キリストの存在とその十字架を彼は知りませんでした。いや、知れるはずなどありません。神が人となり、十字架で死んで、その血を私たちのための新しい契約として流し、聖餐に与る者に、その命を流し込んでくださるなど、誰も考えることはできません。しかし神様は、この新しい契約を、良きものとして本当に実行してくださいました。そして、これによって、エレミヤが最後の一言で預言したように、「わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない」と神様が永遠の決定として決めてくださり、これで金輪際何の罰も無しでいいと、ただ赦すと、悪を赦して罪を忘れるのだと、決めてくださいました。「もう、あなたがたがエルサレム神殿まで行って犠牲を捧げる必要はない。逆に私が必ずあなたのところに届いて、わたしがあなたの神となり、あなたをわたしの民とする。」これが新しい契約です。

 

 この最後の晩餐の席にはユダがいました。今朝の御言葉の22節に「人の子を裏切るその者は不幸だ。」という言葉がありますので、これをもって主イエスはユダを厳しく拒絶していると取る解釈があり、裏切るものは呪われよ、と訳している聖書まであるのですが、それはここの文意にはそぐわないことだと思います。真実はむしろ逆で、先週から読んできましたように、この最後の晩餐の席に、主イエスはユダを、なんとしてでも座らせたいと願っておられました。

 「不幸」と訳されている言葉は、ウーアイという言葉です。これは、それを言う本人の、悲しみや、苦痛、悲嘆などを多分に含んだ、擬声語のような言葉です。ですから主イエスはここで、裏切る者は、ウーアイだと、裏切る者は、ウー、アー、残念で仕方ない、と苦悩のため息を漏らしておられる。これはただそういう言葉です。

 そして、本当に信じられないぐらい深い主イエスの愛がここにあります。主イエスはユダも含めて、「見なさい、ここに、命がある。あなたが裏切ろうとも、私は死を送るのではなく、この命をあなたに贈る。わたしの契約の血を通して、わたしの命を、あなたの命としなさい。あなたを癒すために、わたしは死ぬ」と言われます。しかも、主イエスは、私たちのために命を投げ出すことを全く惜しまれず、むしろ喜んでくださいます。愛があるからです。

 けれども反対に、私たちが喜んで、人に与えることができるのは、自分に余裕のある時や、自分の手持ちが余っている時だけです。たくさんの時間の余裕があれば、人に自分の時間を喜んで与えることができます。たくさんご飯を作ってしまえば、どうぞたくさん食べてねと心から言えます。けれども自分に余裕がない時、自分に痛みや不利益や苦労や面倒を上積みしてしまうような時には、喜んで与えることができません。

 ましてや、相手が裏切る。自分が心から与えようとするものを相手が捨てたり、感謝しなかったり、そればかりか、自分のすべてを、命を与えるにもかかわらず、相手が逆に裏切って懐にはした金をせしめる、ということが分かっていて、この人には与えても無駄だと分かっている中で、惜しみなくすべてを与えて、最大限愛するということは、これは人間にはできません。

しかし主イエスは、それをあなたに対して、この私たちに対して、したのです。これが新しい契約であり、それは同時に最終的な、最後の契約です。つまりこれ以上、上はない。これ以上のものはない。主イエスは、もうこれ以上のことができないからです。「これはあなたのための私の体である。」「これはあなたのために流される私の血による新しい契約である。」「取って食べよ。」そうやって主イエスは、御自分を、丸ごとくださいます。これ以上のことはできないし、これを上回る言葉はない。

 その言葉に従って、取って食べる時、私たちはその主イエスの命を丸ごと受け取り、引継ぎ、それで永遠に生きるようになります。その時私たちの中で、キリストの体が、キリストの血が、血管を伝って全身に流れます。そして、預言者エレミヤが語ったように、本当にこの血管をキリストの命が巡り、それがこの私たちの胸の中の、この心臓にまで達して、神の律法がこの胸に授けられ、モーセの十戒の板にではなく、私たちの心に、神様の御言葉が、以下の律法の言葉が刻み込まれる。「わたしはあなたの神だ、あなたはわたしの民だ。わたしはあなたの悪を赦し、もう再び罪を心を留めることはない。」

 

 ここに人生の中心があります。鮭のように、主イエスは私たちに命を託して死んでくださいました。そして、ここを人生の中心、命の中心にするなら、私たちは、何度でもこの場所を起点にして、立ち上がることができます。私たちは今、言わば、今この自分の命と、キリストが与えてくださる命と、二つの命を両抱えして生きています。だから、たとえもし私の命が今費えても、私は大丈夫です。私のために死んでくださったキリストの命はずっと永遠に、この胸に刻みけられ、心の中で生き続けますので、私たちは永遠に主イエスの命を受けた主の民であり続けます。そしてこの主イエス・キリストは永遠に、私の神、私の命あり続けるのです。

 この聖餐式が、教会にはあります。聖餐式のない今日のこの日曜日にも、私たちは、御言葉を通して、イエスの新しい契約にこの胸で与って、この心に、主イエスの血と命を刻み付けられて歩みます。さらに17節で主イエスは、「これを取り、互いに回して飲みなさい。」と言われ、19節で、「わたしの記念としてこのように行いなさい。」と言われました。私たちはこの聖餐式という主イエスの遺してくださった形見を、そしてこれ以上ない全き愛を、お互いの間で、またこの街、この世界で、継続して、記念し続ける、また行い続ける。そして私たち同士も、こうやって全てを捧げ合って、生きるようにと、招いておられます。主イエスの命は私のために。そして私の命は、誰のために…。