2021年7月18日 ルカによる福音書22章24~30節 「目指すところ」
「目指すところ」という説教題を今朝掲げましたが、教会とは何か?私たちのこの教会の目指すところは何か?という根本的な事柄について、今朝のこの私たちの御言葉は語っています。今年、板宿教会は伝道開始100周年を迎えましたが、しかし、もちろんこの100年目で終わるわけではなく、私たちには先があります。
そして、今後さらに何を目指していくかということについて、私たちは何も奇をてらう必要はありません。今まで100年間やってきたことを丁寧に振り返り、それによって維持されてきた教会の根っこにあるものを、原点に立ち戻りつつ、自覚的に、意識的に、改めて掘り返しながら進めば良いわけで、教会が何を大切にして、何を行って行けばいいのかについては、それは私たちのこれまでの100年の歴史の中に、またこの教会の原点を為す、連綿たるキリスト教教会史と、それを組み上げ、建て上げてきたさらにその原点である聖書に、そして今朝の御言葉にも、それはしっかり書かれてあり、神様はそうやって、その都度、毎週、聖書の言葉によって教会の道行きを照らしてくださっています。
今朝のこの御言葉も先週からの続きで、これは、最後の晩餐の席上での、主イエスと弟子たちとのやり取りです。聖餐式は、別名コミュニオン、とも呼ばれます。それは、コミュニティー、とかコミュニケーションという言葉と、同じラテン語の語源を持っています。その語源とは、coという「お互いに」という言葉と、munusという、「贈る」「仕える」という言葉が合わさって、Co-munusという、「お互いに与え合う」という、この言葉から、コミュニオンという言葉は成り立っています。
そして主イエスが、パンと葡萄主を取って、これは、あなたがたに与えるための、わたしの体であり血であるこれを取って、食べなさい!と、御自分の命と存在を丸ごと私たちにくださるという、これ以上のことはできないという最大の恵みを私たちにくださる、コミュニオン、聖餐式のこの場面において、主イエスはただ三つのことを、その時居合わせた弟子たちに、三つの命令形の言葉によって求められました。先週の説教の後半で、そのうち二つを語りましたけれども、主イエスはご自分のすべてを余さず聖餐式によって私たちに与えてくださるのですが、反対に主イエスが私たちに、これをせよと私たちに求めておられることは、ただ三つの事だけです。
その一つめは、先週の22章17節で主イエスが語られた、「これを互いに回して飲みなさい。」と命じられた言葉。
そして二つめの命令形は、19節にありました、「記念としてこのように行いなさい。」つまりこの聖餐式を、「私を思い出して、これを行え」ということ。
そして、三つめの命令形の言葉が、今朝の御言葉の26節の、「若い者のようになり、仕える者のようになりなさい。」という命令です。
そしてこの三つの、互いに回して飲む、記念して行い続ける、仕える者になる、という命令は、主イエスから受けた命をただ受けるだけでなく、私たちの間でも「互いに与え合う」という、コミュニオンという、聖餐式の深い意味を表しています。そしてこれは本当に、キリスト教会の核にある、教会の実践の中心にあるものです。けれども、今朝の御言葉に出てくる三番目の主イエスの命令の言葉は、そのコミュニオンという聖餐式の意味の、全く逆を行ってしまうような弟子たちの姿に対して、主イエスから語られた言葉でした。
24節にこうあります。「また、使徒たちの間に、自分たちのうちで誰が一番偉いだろうか、という議論も起こった。」弟子たちは、主イエスの血で交わされる新しい契約という言葉と共に杯を酌み交わす主イエスを見て、全くこれまでにはなかった、最後の晩餐の切実さと緊張感に気付いたのだと思います。弟子たちは、その新しい契約の意味や、そこで主イエスの言われていることのすべてを理解するには、とても至らなかったと思いますが、しかし、この上ない特別な席に今自分たちが招かれているということには、思い至ったのだと思います。
そして、その特別な場で弟子たちが何を言い出したのかというと、それは、弟子の一人だけがそう言ったということではなく、むしろ皆が、口々に、「この自分たちのうちで、誰が一番偉いだろうか」という議論をしたのだと、聖書は語っています。彼らは自分たちが特別な12人だということだけでは満足し切れませんでした。そして、その12人の中で、さらにナンバーワンは誰か?俺か?お前か?ということを話さずにはおられなくなりました。なぜでしょうか?
アンパンマンが自分の顔を引きちぎって、空腹な者に与える、もちろんそれとは比べものにならない主イエスの尊い愛と犠牲と命のすべてが目の前で差し出されているのに、その最後の晩餐の食卓で、「この自分たちのうちで、誰が一番偉か」などという議論が戦わされていたら、折角の、主イエスから受けた命を、お互いに与え合うコミュニオンが、台無しです。
しかし私たちは本当に浅ましく、コミュニオンをその場でぶち壊しにするようなことを、臆面もなくしてしまうのです。特別な12人のうちの一人ということだけでは、満足し切れない、それでは安心し切れないのです。これは一体、なぜなのでしょうか?この深刻な筋違いについては、単純に弟子が悪い、ということにしてしまわずに、よくよく自分のこととして考える必要があると思います。
もし私がそこにいたら、私は自分からはそんな空気の読めない話はしないと思います。しかし私は、黙って心の中だけで、あいつよりは自分は上だと、ただ思っていて口には出さない、そういう陰湿なずるいタイプの人間です。しかし誰かがこういう場面で、俺はこの中で一番だ、お前は俺の下だとか、一番愚かで頭が悪いのはお前だ、というようなことをもし言い出したら、「そんなことはどうでもいい。好きなように言わせておけ。私は一番下で結構」なれません。その時には私も、皮肉や、嫌味で相手をこき下ろすようなことを言ったりしながら、身を乗り出してその話に加わらざるをえないと思います。それはなぜか?
恐いからです。誰かが自分を裏切って、不当に自分を低く評価するかもしれないという不信頼が、人を信じられない思いが心の底にあり、人から見下され排除されてしまうのが怖いですし、そうなったら決して赦せないという恐れと怒りが、心の底にあるからです。そこで自分が敗北者となることには耐えられない、自分が低く扱われることを恐れ、いつも勝利者でありたいという自分のエゴと競争が、心からどんどん出て来て、それがお互いに与え合うコミュニオンを壊してしまうのです。
主イエスは、献身と自己否定の限りを尽くして聖餐式を形見として残してくださり、これを記念して続けていきなさいと。そして互いに杯を酌み交わして、私があなたがたに仕えたように、互いに仕え合う者になりなさいと言われましたのに、そのコミュニオンは、12人の弟子たちに与えられた、その瞬間から、のっけから、恐ろしいことに、既に崩壊し始めていました。
この尊い聖餐式を危うくするもの、私たちの命の源、存在の中心、ぶち壊してしまう敵、それはどこか教会の外側から攻めて来て迫害してくる相手なのではありません。聖餐式を破壊する最悪の敵は、それに与る私たち皆の心の内側にいるのです。
弟子たちが、誰が、greatestか、誰が一番偉大なのか?という議論をしていた時、主イエスは、be as the youngest!一番若い者のようになれ!と命じられました。一番若い者というよりもこれは、最たる若輩者になれ!最も下っ端になれ!という言葉です。
また「仕える者になれ」という言葉も、ルカによる福音書では、ほかの福音書にはない、ディアコネオーという、「執事になる」と訳すことのできる言葉がここで用いられています。
あなたがたの中で一番偉い者は、一番の若輩者、奉仕者、執事になれ!とは、どういうことでしょうか?今朝の25節では、「民の上に権力を振るう者が守護者と呼ばれている。」とありながら、しかし次の主イエスの言葉で、「しかし、あなたがたはそれではいけない。」とそれを打ち消し、権力者が否定されています。そんな権力者を目指すなと、誰が一番上かではなく、あなたがたはその反対を行けと。つまり、競争がない。上も下もない。皆が主イエスの愛と命に満額で与って、それだけでなく互いに命を与え譲り合う。そしてこのコミュニオンという記念碑を、記念としてずっと行い続け、維持し続け、広めてゆけと。
これが教会の目指すところであり、教会はこういう教会になるべきであり、そしてこういう教会があったとしたらそこは、とてつもなく優しい場所になります。そしてその時教会は、とてもゆるやかで、温かく、この上なく安心できる、かつまったく安全な場所になるのではないでしょうか?私たちの夢は、目指すところは、このように大きく、そして高いものであるべきです。
後半の28節から30節をお読みいたします。「22:28 あなたがたは、わたしが種々の試練に遭ったとき、絶えずわたしと一緒に踏みとどまってくれた。22:29 だから、わたしの父がわたしに支配権をゆだねてくださったように、わたしもあなたがたにそれをゆだねる。22:30 あなたがたは、わたしの国でわたしの食事の席に着いて飲み食いを共にし、王座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる。」
ここには、先日の神学校での夏期信徒講座で詳しくお話しさせていただいた、神の国についてのことが語られています。そして29節には直したい翻訳があります。それは29節の「父が私に支配権を委ねてくださったように」という言葉ですが、これは、「父が私に神の国を契約してくださったように」という言葉です。「支配権を委ねて」とあるのは、実際には「神の国を契約してくださった」という言葉です。そして、文章の全体的なつながりとしては、父なる神が主イエスに神の国を契約してくださったのと同じように、主イエスも私たちに、神の国を契約してくださる。そしてその契約内容が、30節の実現の約束なのです。すなわち30節「あなたがたは、わたしの国でわたしの食事の席に着いて飲み食いを共にし、王座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる。」と。
グレイテストなわけです。全然下っ端ではない。主イエスは従う者たちに、ただただひもじい思いだけをさせて、冷や飯だけで耐えろと言われるのではなく、皆が天国の神の国で、主イエスと天国の主の晩餐の席にまた再び着ける。そしてそこでは、生半可な王座ではなく、天の王座に座らせてくださり、ただの12人の弟子ではない、イスラエルの救いの諸部族を治める最も偉大な12人の王にまで、その位を高められるのだという、本当に大きな約束です。
先程、夢は、目指すところは、大きく、高いものであるべきだと申しました。ここで目指されている神の国は、とても具体的で、そこには主イエスが一緒にいてくださっている天の王座という、はっきりとしたゴールと、皆がお互いを与え合う競争のない教会というはっきりとした教会のイメージも掲げられています。
けれども、その大きな高い目的に至るまで、いまだ遠き道のりがある。最近「無限消失点」という言葉を耳にしました。それは青い水平線のように、ずっと遠くに留まり続ける目的地点という意味の言葉です。教会の目指すところは、見えないわけではなく、はっきり見えるのですが、それは水平線のように、まだ至らない遠さがある。しかしこれが、そのある意味でののんびりさ、ゆっくり、だんだん水平線に進んで行くという緩やかさが、良いのではないか、そこに福音があるのではないかと思うのです。
すぐ目の前に締め切りがあり、期限が限定されていて、何月何日までに、創立何周年までに、競争のない、お互いに信頼し合い、赦し合い、主イエスのように命を与え合うコミュニティーを作り上げ、完成させなければならないということになると、その時途端に教会は、できない人、付いていけない人を蹴落とし、排除し、淘汰する、競争の激しい、とても厳しい、排他的な共同体になってしまいます。けれども教会は、そうであってはならない。その逆を行く。目的や行く方向ははっきりしているけれども、しかしいつまでにそれを完成させるという行程表は、神様には分かっても、私たちには分からず、それを作ることができない。だから私たちは、少しづつ、しかし大きな夢は諦めず、その理想と約束の実現に向かって、主イエスに学びながら、聖餐式をこの場所で繰り返し行い、そこから絶えず恵みと命を汲み取り与えられながら、毎週、一歩一歩、進んで行く。
主イエスは28節で、「あなたがたは、わたしが種々の試練に遭ったとき、絶えずわたしと一緒に踏みとどまってくれた。」と語られました。これは、「あなたがたは、私が試練を受ける時に、傍に立っていてくれた。」という言葉で、これは聖書の中から、未来に生きる今朝の私たちに向けて主イエスが語ってくださっているような御言葉です。
試練とは十字架の事です。そして十字架の側に立っているあなたがたとは、今朝のこの私たちのことであり、ここではキリストの十字架を掲げる世々のキリスト教会が指差されています。そして主イエスは、今朝もこうして御自身の十字架の側に立つ私たちに、父なる神から御自分が受け継がれた神の国を、受け継がせてくださると、約束してくださっています。
神の国のその高い目標、その一見果てしない、水平線の果てにあるようなそのゴールに、しかし主イエスは、私たちをちゃんと連れて行って、その神の国に私たちを運んで、到着させて、そこに立たせてくださいます。教会とは、聖餐式をエンジンにして、ゆっくりと、しかし確実に進む、誰もが乗り込み招かれることのできる大きな船のようなものです。そして私たちが、今朝このキリストの教会に繋がっているということ、聖餐式にも招かれ、その味わいを知っているということは、この上なく大きな慰めであり、励ましです。