2021年8月1日 ルカによる福音書22章31~34節 「すべて込みで」
私たちが 今朝も、こうして生きて会うことができ、またそれぞれの場所で生かされて、共にこの礼拝を捧げることができます恵みに、心から感謝いたします。
コロナウィルス禍も、ついに第5派まで来ました。東京では既に、また大阪では明日から、第4回の緊急事態宣言が発出されます。私たち人類は今、世界全体で苦しみを共有しています。世界全体の人々が、こんなにも一様にして、同じ問題で苦しみを共にするということは、今までなかったように思います。そしてこんな苦しみは、もちろん無ければ無いに越したことはないのですけれども、一方で、苦しみのない、順風満帆な人生は、私たちが神様の助けと愛を常に必要としながら生きているという、大切な真実を見失わせてしまう。そういう問題点を持っています。
本当に神様に助けてもらうしかない、守ってもらうしかない、それが私たちの人生であり、本当にそういう、神様に助けてもらわなければ成り立たない毎日が、私たちの毎日の本当の姿です。コロナウィルス禍は改めて、その私たち自身の姿への大切な気付きをもたらすものだと思います。
第5波が来て、もう既に3回緊急事態宣言が出されているのに、それでもまた失敗して、4回目に突入せざるをえなくなっている。そういう失策失敗続きの、誠に恥ずかしい私たちなのですけれども、しかしそういうこの私たちに向けられている、十字架に架かられる前夜の主イエス・キリストの姿とまたその言葉は、底抜けに優しく、親しく、近く、そして温かいものです。今朝、この日に私たちそれぞれが、この御言葉に出会うことができて、本当に良かったと思います。
最後の晩餐の席の終わりに、主イエスは突然ペトロに対して語り出されました。31節から32節です。22:31 「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。22:32 しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」
今朝のこの御言葉に登場するのは、主イエス・キリストの12弟子の筆頭であるペトロです。そしてペトロが弟子たちの筆頭でありリーダーであるということは、この彼の姿にこそ、すべてのキリスト者の目標があり模範があるということです。ではそのペトロは、主イエスの十字架を前に何をしたか?皆様も既によく知っておられますように、ペトロは、このあと数時間の間に、三度、主イエスを知らないと、つまり主イエスと自分には何のかかわりもないのだと、何の縁もない、知りもしないし、出会ったこともないのだと、そういうレベルで主イエスとの関係を否定するのです。
主イエスとの関わりを否定し、出会いを否定するということは、自分が主イエスの弟子であることを否定し、自分が信仰者であることを否定するに等しいことです。師であり主である主イエスが十字架に架かる直前の、主イエスを救えるか救えないかという、主イエスの命の架かった最も大事な場面で、弟子の筆頭ペトロは、自分が主イエスの弟子であり、クリスチャンであることを、否定したのです。主イエスの命ではなく、自分の命を守って助かりたいがために。
今朝の33節で、ペトロはこう語っています。「22:33 するとシモンは、「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と言った。」
一回なら、ちょっと魔が差したとか、うっかりしていたとまだ言えるのかもしれませんが、しかし三回連続でペトロが行った裏切りに、弁明の余地はありません。しかしこの言葉は、その裏切りのほんの数時間前の言葉です。33節の正確な訳は、一人なら難しいですが一緒になら死んでもよいですよ、という意味ではなくて、「私には、あなたと一緒に牢に入って、死にに行く準備が既にできています。」という勇ましくも頼もしい言葉です。しかし一緒に死にに行くどころか、ペトロは、自分と主イエスとのすべての関わりまでもを、うち消し否定してしまいました。
前の晩、自分が安全なところにいる時には、勇ましく頼もしいことを言えたが、しかし次の朝には、その自分の言葉を忘れたようになって、あっさりとそれを裏切る。これは本当に既視感のある姿です。こういうことをいつもしている人のことを、私たちはそれぞれ知っています。その人は、鏡を見ればそこにいます。もし自分の生活を何日間かビデオに撮って見てみたら、このペトロと同じ姿を、私たちは自分自身に幾度も発見するほかないのではないでしょうか?とりわけ信仰に関する事柄について、特にそうなのではないでしょうか?神様に対する祈りや約束ということにおいて、私たちは、神様が、今この目に見えない方であることをいいことに、神様の前での前言撤回を幾度も繰り返してしまいます。
前の晩の勇ましい言葉にもかかわらず、自分の信仰をあっさり否定してしまうペトロ。信仰があるのか無いのか、無いのかあるのか、本当に分からないような、ひらひらと風にたなびく薄皮一枚の信仰が、露わになってしまっています。けれども主イエスは、「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。」と言われ、先程の勇ましいペトロの言葉に対して主イエスは、「22:34 イエスは言われた。「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。」」と言ってくださいました。これは何とも、涙なしには、ひざまずくこと無しには、聞くことのできない言葉です。
マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四つの福音書は、そのすべてが、このペトロの離反予告を、同じようなかたちで語っています。四つの福音書が四つとも語ることというのは、極めて特別な事柄についてのことだけです。あのクリスマスの出来事さえも、実はマタイとルカの二つの福音書にしか出てきませんし、最後の晩餐も、ヨハネ福音書には出てきません。四つの福音書が皆共通して語るのは、主イエス・キリストの十字架と復活のことと、それに加えては、今朝の御言葉のほかには、五千人の養いの奇跡など、極々限られたことだけです。
そして今朝の御言葉の中で、マタイ福音書とマルコ福音書に比べて、このルカとヨハネ福音書が、はっきりと違う形で書き表していることがあります。それは、ペトロの勇ましい言葉と、主イエスの、あなたは、三度わたしを知らないというだろう、という主イエスの言葉の順序です。
マタイとマルコでは、ペトロの勇ましい言葉の前に、主イエスによるペトロの裏切りの予告が来るのですが、今朝のルカとヨハネ福音書では、ペトロの勇ましい言葉の後に、主イエスの裏切り予告の言葉があるのです。この違いは、どういうことを物語っているのでしょうか?
この二つの語り方の違いは大きいと思います。「たとえ死んでも、決して知らないとは申しません」というペトロの反論の言葉でこの場面の話が終わるのか?あるいは、「三度わたしを知らないというであろう。」という主イエスの、ペトロの勇み足をなだめるかのような言葉をもって話が終わるのか?きっと後者のこのルカによる福音書の書き方の方が、主イエスの、すべて込みで、という面が強く表れていると思います。本当に表も裏も全部込みで、何度もイエスを知らないと嘘をつくペトロの、その裏切りも込みで、主イエスはペトロを見ていてくださり、そんなペトロの信仰が無くならないように祈った、と言われた主イエスの、すべて込みで、ペトロを受け入れる愛の大きさ、裏切られても離れられても、そこまで込みで、赦してくださり、追いかけ追い付いてくださり、そんなペトロを決して離しはしない、という、主イエスの赦しの大きさ、広さ、温かさが、ここから本当に強く伝わってくるのではないでしょうか?
31節の「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。」という主イエスの言葉は、このルカ福音書にしかありません。嬉しい言葉です。救われます。主イエスは今天におられてそこで寝ておられるのではなく、そこで、まどろむこともなく、絶えず私たちのために祈りとりなしてくださっていると、ヘブライ人への手紙に書いてあります。つまり信仰の代表者ペトロに対してそうであったように、今のこの私たちそれぞれのためにも、主イエスは、今朝の御言葉を通じて、「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈ったのだ。」と言ってくださるのです。
それは、31節のその言葉の続きからも読み取れます。31節後半「だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」これから最悪の裏切りを犯し、失敗を犯すペトロに、「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」と。裏切り、失敗、信仰が無くなりそうになる危機、しかし必ずやそれを乗り越え立ち直る未来、それが主イエスには見えている。さらに、その立ち直った先での、ペトロが、さらに自分と同じような苦境や挫折に見舞われる兄弟たちをも、今度は彼が支えて力づけていく、そんな本当に勇ましい、自分の言葉通りの使徒とされていくというペトロの将来、そしてそこに力強く立ち上がる信仰者たちの群れ、つまりそこに生み出されるキリスト教会と、そこに集う、互いに励まし合い力づけ合いながら生きる私たち信仰者の姿。そこまで主イエスは、見ておられる。この今の私たちのためにも、その先駆け、また模範として、ペトロよお前は立ち上がれ、「立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」と主イエスは言われて、まさにその言葉が、今朝、この板宿教会にも、今、届いたのです。
私たちは、なるべく挫折しないように、失敗しないように生きていきたいと皆願いますけれども、しかし聖書は、失敗したらもう取り返せない、失敗は許されない、とは決して語りません。聖書では、人間は失敗し、挫折を味わうということが前提です。そして聖書が問題としているのは、失敗するかしないかということではなくて、挫折し、失敗したあとのことです。
「死も覚悟のうえです」と語ったペトロに対して、主イエスは、「おお、そうか、頼もしいな!じゃあ、その意気で頑張れよ!」と、背中をバンと叩いて、それでこの話は終わったのではありませんでした。主イエスは、逆に、あなたは今日これから失敗すると、それも、ひどいかたちで何度も失敗すると語られました。
皆様、どっちの言葉で、今日、ここから送り出されたいですか?
主イエスは、ペトロの失敗を予告されながら、けれども同時に、しかしそれでもあなたは終わりではない。そういうあなたをこそわたしは愛して、失敗するあなたのしんこうがなくならないために、わたしは祈ると主イエスは仰って、ペトロではなく逆に主イエスが、牢屋に投げ込まれ、鞭打たれ、十字架に架かって、命を捨ててくださったのです。
ダメなペトロ、惨めなペトロ、主イエスの祈りがなければ信仰を捨ててしまうような弟子のリーダー、本当に神様に助けてもらうしかない、神様にいつも守ってもらうしかない、そうでなければ成り立たないペトロだからこそ、主イエスはそのペトロを助け、愛し、その様なペトロが罪を赦されて、その傷を癒やされて、立ち直ることが出来るようになるように、主イエスは十字架に架かり、その肉と血を私たちの立ち直りのために与えてくださった。さらにはその三日後に復活してくださり、もう一度ペトロの前に現れてくださいました。復活された時、主イエスはその第一声で、「ほら見ろ、言った通り、失敗したな」と仰ったのではなく、「命を懸けて死んだのは、私の方だったな」とも言われず、主イエスの愛と救いの意味をこの時やっと理解しかかって、恐れ戦慄くペトロの、その弱さも何もかもを、丸ごと包むように、主イエスは弟子たちの真ん中に立ち、一言、「平和があなたがたと共に」と言ってくださいました。
本当にここに、福音と呼ばれるに相応しいものがあります。この生身でむき出しの私たちの弱さや、虚勢を張るようなその言葉も含めて、この人生全体を肯定し、失敗をもすべて込みで受け入れてくださる主イエス。自分の人生最大の失敗であり挫折である所が、しかしかえって神様との他にはない出会いの場所になり、その場所が神の愛を豊かに受け取る場所になるという、自分人生の意味がまるごと変わるような救いが、この主イエス・キリストとの出会いにはあります。
皆様は、どんな一週間を過ごされましたか?実際に、失敗、挫折、裏切り、一貫していない言動、色々あったはずです。そして、これからどんな一週間を私たちは過ごすのでしょうか?しかし今朝、この礼拝に繋がることができて良かったです。この私たちの真ん中にも立って、「平和があなたがたと共に」と言ってくださる主イエスに、今朝出会ったからには大丈夫です。今週も、たとえ何が起ころうとも、主イエスは、すべて込みで、送り出してくださいます。