2021年8月8日 ルカによる福音書22章35~38節 「逆風に立つ」
1800年代半ばに生まれ、ノーベル文学賞を受賞した、アナトール・フランスというフランス人文学者の「少年少女」という本の中に、ある女の子とその母親とのやり取りが記されています。
学校でいい点数を取った少女が、家に帰ってくるなりお母さんに尋ねました。「いい点数は何の役にたつの、ね、お母さん?」それにお母さんが、答えました。「いい点数は、何かの役にたつというような、そんなものではありません。しかしそれだから、いい点数をもらったことを喜ばねばなりません。お前も今に、一番尊いご褒美は、ただ名誉だけが与えられて、それから受ける利益はない、そんなご褒美だということがわかるようになるでしょう。」
とても含蓄の深い、人生の根本的なところに触れてくる言葉です。「一番尊いご褒美は、ただ名誉だけが与えられて、それから受ける利益はない、そんなご褒美だ」
私たちは、何を目指して生きているのでしょうか?何が欲しくて生きているのでしょうか?何を得ることがこの人生の目的でありゴールなのでしょうか?
自分が何かの利益を受けること、そのために生きているのでしょうか?自分に何かの利益がなかったら、その人生は残念な人生で、その人生は台無しなのでしょうか?あるいは、自分が利益を受けないような人生でも、その人生がもっと何か、それを超えた、栄誉、名誉、大きな価値という、尊いご褒美に結び付くということが、人生には起こるのでしょうか?
私たちの人生には、その両方が起こりますけれども、今朝の御言葉には、その両方を踏まえたうえで、後者の、自分が利益をうけることに留まらない、それを超えた生き方、そこにこそある人生の価値というものが指し示されています。
今朝の35節です。「22:35 それから、イエスは使徒たちに言われた。『財布も袋も履物も持たせずにあなたがたを遣わしたとき、何か不足したものがあったか。』彼らが、『いいえ、何もありませんでした』というと、」これは、このルカによる福音書の10章で起こった出来事を回想しながら主イエスと弟子たちが話をしている部分ですが、かつて10章のところで、主イエスは弟子たちを二人組のペアにして、イスラエルの町々に向けて短い伝道旅行に派遣なさったことがありました。そしてそこで弟子たちが送り出された時、それに当たっての主イエスの指示は、財布も袋も履物も持っていくなという指示でした。そして、弟子たちは主イエスから、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を託されていましたので、実際にその時には、人々から歓迎を受けて、足りないものはすべて満たされ、目覚ましい働きをし、成果を上げて、本当に何も持たなくても、主イエスの権威と力に寄り頼んで進むならばすべては可能なのだという伝道の成功体験を携えて、喜んで帰ってきたのでした。その時の弟子たちは、大きな成果と利益を得ましたし、人々からの尊敬や応援も受けることができました。
けれども、その時とは打って変わって、今朝の36節です。「22:36 イエスは言われた。『しかし今は、財布のある者は、それを持って行きなさい。袋も同じようにしなさい。剣のない者は、服を売ってそれを買いなさい。』」
しかし今は、と主イエスが語り出されているように、今は、10章の時とは、状況が変わった。時がまた変化して、時がもう一歩先に進んだのです。その時の変化の理由が37節に言われています。『22:37 言っておくが、「その人は犯罪人の一人に数えられた」と書かれていることは、わたしの身に必ず実現する。わたしにかかわることは実現するからである。』
37節には、繰り返し、わたしの身に必ず実現する。わたしにかかわることは実現する、と言われています。そしてその前に鍵カッコで引用されている言葉は、先ほどお読みした旧約聖書のイザヤ書53章12節にある、苦難を受ける主の僕の引用文です。主イエス・キリストの十字架の死を預言するイザヤ書53章には、「彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。彼の受けた傷によって、わたしたちは癒された。わたしの僕は、多くの人が正しいものとされるために、彼らの罪を自ら負った。」という言葉が連ねられています。そしてその言葉が、主イエス・キリストの身に必ず実現する。その時が今来たのだと、十字架を前にした最後の晩餐の席上で、主イエスは最後に言われたのです。
この前、聖書日課のリジョイスで、愛と何かについてまとまって語る、コリントの信徒への手紙Ⅰの13章を解説する際に、森有正という哲学者の言葉を引用しました。森有正は愛についてこう語っています。「愛はその本性から言って悲劇的なものである。不幸でないような愛は存在しない。」愛はその本性から言って悲劇的だと森有正が言うとき、彼が、愛の本性として、主イエス・キリストの十字架を考えているということは明らかです。十字架には、自分利益はない。そこには自分の死があり、不利益しかない。コリントの信徒への手紙1の13章も語るように、その愛は、「忍耐強く、情け深く、ねたまない。自慢せず、高ぶらず、礼を失せず、自分の利益を求めない」のです。
その愛の本性が、御自分自身の十字架によって、自分の身を通して表される時が来た。そしてそれゆえに、主イエスは36節を語られたのです。「22:36 イエスは言われた。『しかし今は、財布のある者は、それを持って行きなさい。袋も同じようにしなさい。剣のない者は、服を売ってそれを買いなさい。』」
これは、翻訳が微妙にずれているので直したいのですが、この36節の言葉には、その最後に、売りなさい。そして買いなさい。という2つの命令形が並べられていますので、主イエスがここで仰りたいことは、「売れるものはとにかく売って、剣を買え」という命令です。
以前は、手ぶらで、丸腰で出て行っても、豊かに与えられ、満たされて、敵からの安全もしっかり守られた。でも今は違う。財布があったら、袋があったら、それを手に取り、持てるものは持っていきなさい。そして、それらを売りなさい。生きていくうえで必要不可欠な服でさえも、売り払ってしまいなさい。そして、今あなたが持っていない剣を買いなさい。全てを投げ打ってでも、その剣を買いなさい。ここから先は、前のように与えられない。前のようには守られない。だから以前は持っていなかった剣を買い求めて、それを使って、あなたがたは戦わなければならない。とても真剣で、暗示的な意味の込められた主イエスの言葉です。
しかし弟子たちは、暗示的なこの言葉を、その深い意味を捉えずに、額面通りに単純に受け止めて、38節の言葉で答えています。38節。「22:38 そこで彼らが、『主よ、剣なら、このとおりここに二振りあります』と言うと、イエスは、『それでよい』と言われた。」
何でも、着ているものまでも売りはたいて、有り金をすべて投じて、剣を買いなさいと言われた主イエスに、「あのう、剣は2本ここにありますけど…」と答えた弟子たちは、主イエスの言葉の意味を取り違えていました。
もちろん主イエスは、剣を沢山買い揃えて暴力に訴え出るのだ!さあ戦闘だ!と、そういう意味での戦いの備えを訴えられたのではありませんでした。主イエスが買えと言われたのは、目に見えない戦いを戦うための剣です。
エフェソの信徒への手紙6章には、「救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。」という言葉があります。霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。そして主イエスは文字通り、神の言葉である旧約聖書のイザヤ書の言葉を、そこに現わされている神様の御心を、力ある剣としてその心に携え身構えて、その意味で、逃げも隠れもせずに、強く勇ましく、この次の日に起こる命を投げ打つ十字架の戦いに向かって、突進されたのです。
それは、その傷によって私たちを癒すため。その死によって、私たちを愛し、私たち正しい者たちとし、裁きを免れさせて、私たちに命を得させるためでした。
もちろん、神様に従うことによって、私たちはそこから恵みを受けることができ、満たされ、また守られます。でも、説教冒頭の言葉も、真理を突いています。「一番尊いご褒美は、ただ名誉だけが与えられて、それから受ける利益はない、そんなご褒美だ。」
そんなご褒美とは、では一体何か?今朝の御言葉に即して言えば、それは愛だ、と言えます。愛というものは、ただ愛を受けるだけではそのすべてを知ることができないものです。愛は、愛されるだけでなく、愛を与え他者を愛する時に、その時にこそ、目減りするのではなく、大きく増え拡がる。お金も同じで、またこの命というものも同じだと思いますが、愛も、使ってこそ、その意味を成す。それは使われる時にこそ実質をなし、充実した手ごたえを見る。
自分の利益を求めないのが愛ですから、愛しても、利益は来ず、自分はむしろ損失し、愛は自分を相手に与えてしまうことですので、自分はそれによって失われるわけですが、しかし、そこではっきり残るものがある。コリントの信徒への手紙Ⅰ13章も語るように「信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である」(コリントの信徒への手紙Ⅰ13章13節)とありますので、その愛したという事実は、永遠に消えない。残るのです。その栄誉は、人生の一番尊いご褒美として、人がそれを忘れたとしてもそれは神様の記憶の中に、永遠に、世の終わりをまたいでさらに、未来永劫不動のものとして刻まれるのです。
愛すること。それはもちろん簡単ではありません。そこにあるのは、剣を用いた、血が流れるような戦いです。けれども主イエスは、ルカの10章の時を弟子に思い出させられて、あの時は守られたよな?と、あの時、不足したものが何かあったか?と尋ねられて、「いいえ、何もありませんでした。」と弟子たちに答えさせてくださいました。
今の私たちも同じです。先週、どうだったか?今まで、どうだったか?不足したものが何かあったか?と、主イエスは、神様の御前に立つこの私たちそれぞれの人生にも、この朝、また改めて問いかけてくださいます。そして今、その恵みの時間をかみしめつつ、さらに御自身と共に逆風の前にも立つように、立てるように。自分の利益を求めず、愛を与えて生きるという生き方にも、今私たちそれぞれを招いてくださいます。
今朝の38節の最後の主イエスの言葉を、多くの聖書解釈者たちは、「it’s enough」と、「もうよい」「もうたくさんだ」というネガティブな意味の言葉として捉えています。その解釈でこれを読むと、主イエスが霊的な意味での剣について語っておられたのを理解せずに、ただの手持ちの剣を「これでどうですか!」と勇んで差し出した弟子たちに、「本当に何も分かっていないな。もうよい。もう黙っていろ。」と主イエスが言われて、そこでオチがついて舞台が暗転するというかたちになるのですが、しかしここは、この新共同訳聖書がその線で翻訳してくれていると思いますが、「もう結構」という、そういう突き放しの言葉ではなくて、完全に勘違いをしていてそれに気づかない弟子たちだけれども、でも弟子たちのその意欲に、主イエスは感じ入ってくださって、「ありがとう。そうだ。それでよい。一緒に戦ってくれな!これからも一緒に戦おうな!」と主イエスが弟子たちを励まして、弟子の見当違いにも、失望せずに、それを優しく受け止めてくださっている。これはそういう主イエスが語ってくださっている「それでよい。」という御言葉なのだと思います。
とうてい戦力にはならない。そして実際に、この後すぐに、弟子の筆頭ペトロが主イエスを裏切る。主イエスはその裏切りについても既に分かっておられて、その挫折によってペトロが信仰を失ってしまうことがないように、既に先週の御言葉で主イエスは祈ってくださっている。そういう、全方向から私たち一人一人を包むように見守ってくださって、失敗の先を見越してフォローをし、このおぼつかない歩みを、でも主イエスは「それでよい。」と励ましてくださる。
色々と難しくても、うまくいかなくても、大変なことがあって、こんな人生、利益よりも損失ばかりではないかと嘆きたくなる時も、しかし、一人でではなく、その主イエスと一緒に逆風に立つなら、あるいはその主イエスに、自分の一歩前を行って、風を受けていただいて、その主イエスの背中に守られて逆風に立つなら、たとえ逆風の中にあっても、その主イエスと一緒に逆風に立てるということ自体が、既に一番のご褒美であると思います。
私たちは、もっとこの主イエスに頼って良いのだと思います。一人で、数人で、この逆風吹き荒れるような時代に立つ、小さく可哀想な存在がこの私たちなのではありません。結局は自己責任で、自分の力で何とか生きていくのがこの人生ではありません。主イエスを、私たちの戦いや、自分の人生の困難の中にちゃんと招き入れて、ここに主イエスに入ってきていただきたい。他の剣を振り回すことで戦うのではなくて、一緒に立って、一緒に戦ってくださる主イエス・キリストに、この私の人生のできる限り近くまで、できる限り深くまで、この心の中の戦いの奥底まで、入ってきていただいて、一緒に戦ってもらう。そこで初めて、辛い手触りの人生に、安心と愛の温かみが差し込むのです。何か色々の別の剣を振り回しながら進んで行くのではなく、もうこの際、ここまで主イエスの前に私たちは来ているのですから、他のものすべてを投げ打ってでもして、本当に今こそ、シンプルに、そして力強く、主イエス・キリストを頼みとして、わたしの人生の中で、この心の中で、この方にこそ、霊の剣、神の言葉の剣をもって存分に立ち振る舞っていただけるように歩みたいと思います。